武士の時代バナー 関ヶ原年表4
<小山評定から関ヶ原本戦まで>
 
西軍(三成方)関係 東軍(家康方)関係
慶長5年
(1600)
8 1 伏見城を落とす 伏見城、守将・鳥居元忠、松平家忠ら城兵とともに討ち死
  8 2 二大老四奉行(毛利輝元、宇喜田秀家、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家)名で伏見城攻略の連署状を出す 家康、小山を発ち、江戸に向かう
  8 3   前田利長、西軍方の大聖寺城を落とし、城主・山口宗永、修弘父子を自刃させる(大聖寺城の戦い
  8 4   家康、福島正則あてに井伊直政を先鋒として出馬させた旨の書状を送る
  8 5 三成、佐和山に戻る
毛利秀元、吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊、伊勢に布陣を進める
家康、江戸に到着(この後、26日間在城)
九州の松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前らが東軍に通じることを確認
  8 8   前田利長、北ノ庄城の青木一矩を攻めている途中、大谷吉継の流言に惑わされ金沢に軍を返す
前田軍の一部は、小松城の丹羽長重攻略に向かう
  8 9 三成、6000の兵を率い、垂井に到着
三成、西軍側の大垣城主・伊藤盛正を説いて、大垣城を提供させる
前田利長と丹羽長重、浅井畷で衝突する浅井畷の戦い
  8 10 三成、大垣城に入城  
  8 13 増田長盛・宇喜多秀家らを伊勢方面に進軍 家康、東軍諸将に開戦を促すため、村越直吉を派遣する
  8 14   福島正則、池田輝政、黒田長政、浅野幸長、加藤嘉明、細川忠興、藤堂高虎ら、正則の居城・清洲城に入城
  8 15 金森長近の飛騨高山城を攻撃  
  8 16 朝廷から権大納言・広橋兼勝、参議・勧修寺光豊が大坂城に遣わされ、秀頼に家康との講和を要請する
  8 17   徳永寿昌、市橋長勝、横井時泰ら、西軍方の美濃福束城主・丸毛兼利を破る
黒田長政、吉川広家に「家康が毛利輝元を兄弟同然と思っている」旨の書状を送る
  8 19   家康の使者・村越直吉が清洲城で東軍諸将に「すみやかに美濃に進軍し、家康への忠誠を見なければ、家康は出陣しない旨」伝える
  8 20   東軍諸将、軍議を開き、35000の兵力で岐阜城を攻める事を決定
  8 23   岐阜城を攻撃、落城させる
岐阜城主・織田秀信、降服して高野山に追われる
  8 24 毛利秀元、吉川広家、鍋島勝茂、竜造寺高房、長宗我部盛親ら30000、伊勢安濃津城を攻撃する(安濃津城の戦い 秀忠、宇都宮より信濃に向け進軍開始
  8 25 上杉景勝、本庄繁長を福島城に移し伊達政宗に備える  
  8 26 安濃津城落城
三成、大坂城に毛利輝元出馬要請の使者を立てる(使者不着)
三成、大垣城を出て、佐和山城に戻る
この日、江戸から家康出馬の予定だったが、9月3日に延期される
  9 1   家康、更に予定を変更し、3万の兵を率い出馬、神奈川に至る
秀忠、信濃・軽井沢に到着
  9 2   家康、藤沢に至る
秀忠、小諸に到着
秀忠、上田城主・真田昌幸を降伏させるため、子の信之を使者に立てる
  9 3 三成の要請により、大谷吉継、関ヶ原近くの山中村に着陣
宇喜多秀家、大垣城に入城

直江兼続、米沢城で最上攻めの軍議を行う
家康、小田原に着陣
  9 4   家康、三島に至る
昌幸、開城を拒否
  9 5   家康、清見関に至る
秀忠、上田城攻撃を開始上田城の戦い
10日まで交戦するも、昌幸の采配に徳川軍悩まされる
  9 6   家康、島田に至る
  9 7 毛利元康、立花宗茂、筑紫広門ら15000の兵で大津城主・京極高次を包囲
毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊ら毛利一族、南宮山の東麓に陣を構える
家康、中泉に至る
  9 8   家康、白須賀に至る
小早川秀秋の使者が家康に面談
  9 9 直江兼続、24000を率いて山形領に攻め入る 家康、岡崎に至る
  9 10   家康、熱田に至る
秀忠、上田城攻略を断念
  9 11   家康、清洲に至り、12日まで逗留する
  9 13 大津城攻め開始大津城の戦い

直江兼続、最上方の畑谷城を落とす
家康、岐阜に至る
秀忠、下諏訪に至る
田辺城主・細川幽斎、勅命により開城する
  9 14 三成家臣・島左近、兵500で杭瀬川を渡り東軍陣所近くを放火し、東軍を挑発し、挑発に乗った東軍側の中村一栄、有馬豊氏を宇喜多秀家家臣・明石全登隊が攻撃しかける(杭瀬川の戦い

軍議で今後の方針について意見が二分する
@家康の本陣に一気に夜襲をかける(島津義弘ら主張)
A秀頼、毛利輝元の出馬を待つ(三成ら主張)

その後、三成は東軍の大坂城攻撃という情報を掴み、関ヶ原で東軍を食い止めるという作戦を決断
家康、岡山に着陣し、本営とする
軍議で今後の方針について意見が二分する。
@大垣城攻略を第一とする(池田輝政・井伊直政ら主張)
A大坂城攻略を第一とする(福島正則・本多忠勝ら主張)

家康、「佐和山城攻略後、大坂城を攻める」という方針を示す
家康、小早川秀秋と吉川広家に起請文を送り、東軍に引き入れるべく工作を行う

関ヶ原年表3へ   関ケ原年表ホームへ   関ヶ原年表5へ