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関ヶ原年表5 <関ヶ原本戦当日> |
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年 | 月 | 日 | 時刻 | 西軍(三成方)関係 | 東軍(家康方)関係 |
慶長5年 (1600) |
9 | 14 | 19:00 | 三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家ら西軍諸将、大垣城を発し密かに関ヶ原に向かう | |
三成、行軍途中に長束正家、安国寺恵瓊の陣を訪問し、作戦を練る | |||||
三成、小早川秀秋重臣・平岡頼勝を訪問し、狼煙を合図に東軍の側面を衝くという約束を得る | |||||
三成、大谷吉継と最終打ち合わせをする | |||||
9 | 15 | 2:00 | 家康、出陣命令により東軍諸隊、関ヶ原に行軍開始 | ||
5:00 | 西軍諸隊布陣完了 ・三成隊6000、笹尾山と小関村に隊を分け布陣 ・島津隊1500、小池村に四段構えで布陣 ・宇喜多秀家隊17000、南天満山の前に五段構えで布陣 ・小西行長隊4000、北天満山を背に二段構えで布陣 ・織田信高、伊藤盛正、岸田忠氏、豊臣家黄母衣衆ら2000、石田隊右隣に布陣 大谷吉継隊600、戸田重政・平塚為広隊1500、大谷吉勝・木下頼継隊3500、脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保隊4200、小早川秀秋隊15600、毛利秀元隊15000、吉川広家隊3000、長束正家隊1500、安国寺恵瓊隊1800、長宗我部盛親隊6600は、着陣済 |
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6:00 | 東軍諸隊布陣完了 ・福島正則隊6000、宇喜多隊に対陣 ・黒田長政隊5400、石田隊に対陣 ・細川忠興隊5000・加藤嘉明隊3000・筒井定次隊2850・田中吉政隊3000、島津隊に対陣 ・井伊直政隊3600・松平忠吉隊3000、細川隊の後部に布陣 ・古田重勝・織田有楽・金森長近・生駒一正隊4600、井伊直政隊後部に布陣 ・藤堂高虎隊2490・京極高知隊3000・寺沢広高隊2400・本多忠勝隊500、大谷隊に対陣 ・浅野幸長隊6510・池田輝政隊4560・山内一豊隊2000、有馬豊氏900、毛利隊らの抑えとして南宮山の麓に布陣 ・家康30000、桃配山に布陣 |
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8:00 | 井伊直政、松平忠吉とともに西軍(宇喜多あるいは島津隊)へ発砲 福島隊、宇喜多隊に一斉射撃 関ヶ原の戦い始まる |
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9:00 | 西軍戦闘参加兵力 32600、東軍戦闘参加兵力 75000 宇喜多隊 VS 福島隊 石田隊 VS 黒田、細川、加藤、田中、筒井、生駒隊 大谷隊 VS 藤堂、京極隊 島津隊 VS 松平忠吉、本多忠勝、井伊隊 小西隊 VS 織田、古田、金森隊 西軍側やや有利で戦況推移 三成、大筒で笹尾山から砲撃する |
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三成隊の島左近、黒田隊の側面攻撃により負傷 西軍の士気に大きな影響を与える |
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10:00 | 三成隊、先陣が崩れる 三成、八十島助左衛門を島津義弘に遣わし、救援を求めるが拒否される 三成、島津豊久に再度、救援を求めるも拒否される |
家康、戦況のこう着状態に苛立ち指物を切り捨てる 家康、本陣を桃配山より前方の陣馬野に移す |
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11:00 | 三成、総攻撃の狼煙をあげる 南宮山の長束正家、毛利秀元に出馬の急使をたてる 吉川広家、毛利秀元の出馬を阻止する |
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12:00 | 大谷軍、藤堂・京極・小早川・脇坂・朽木・小川・赤座軍に四方から攻撃を受け玉砕する 大谷吉継、自刃 |
家康、松尾山の小早川秀秋に鉄砲をを射掛ける 小早川軍15000、西軍を裏切り、大谷軍に攻め入る 小早川軍に引き続き、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保軍が西軍を裏切り大谷軍を攻撃 |
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13:00 | 大谷隊の玉砕が西軍の士気を喪失させ、それまで互角の戦いを見せていた小西軍・宇喜多軍も大きく崩れる | ||||
14:00 | 三成隊も敗走を始める 蒲生郷舎が戦場に残り、三成、伊吹山方面に脱出 |
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島津隊、家康本陣を突破して戦場離脱を強行する 東軍の追撃に島津豊久始め、多くの島津将兵が討たれる |
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吉川広家、黒田長政に家康に対する御礼を託す | |||||
家康、陣馬野の本陣で首実検を行う | |||||
17:00 | 家康、藤古川の台地に本陣を移し、東軍諸将の引見を行う |