武士の時代バナー 関ヶ原年表3
<上杉征伐から小山評定まで>
 
西軍(三成方)関係 東軍(家康方)関係
慶長5年
(1600)
6 2   家康、書状により関東の諸将に会津征伐の準備を命じる
  6 6   大坂城西の丸に諸将を集め会津征伐の陣立てを決める
 白河口〜家康・秀忠ほか
 仙道口〜佐竹義宣
 伊達・信夫口〜伊達政宗
 最上口〜最上義光ほか
 越後口〜前田利長ほか

家康、養女を黒田長政に嫁がす
  6 8   後陽成天皇、使者を大坂城に遣わし、家康の出馬を労う
  6 10 上杉景勝、甘糟景継ら重臣に対して、家康を迎え撃つ覚悟とともに「自分に従うか否かは心のままにせよ」と書状を送る  
  6 14 佐竹義宣、伊達政宗、最上義光、会津征伐準備のため大坂を去る
  6 15 前田玄以、増田長盛、長束正家(以下三奉行と略す)、諸将に7月10日以前の軍事行動を禁ずる 秀頼、家康に対し会津征伐の軍資金として黄金2万両、米2万石を贈る
家康、天野康景と佐野綱正を大坂城西の丸留守居役とする
  6 16   家康、大阪城から伏見城に移る
  6 17   家康、伏見城守備として鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、安藤定次(目付)を残留させることを決める
  6 18   家康、伏見城を出陣
昼は大津城で休憩、石部で宿泊
長束正家の襲撃を警戒し、夜中に急遽出立(伊勢の関まで移動)
  6 19   秀忠、江戸城で諸将に出陣命令を出す
  6 20   家康、四日市に到着するも、氏家行広、滝川雄利の襲撃を警戒し、夜、船で海路をとる
  6 21   家康、三河佐久島に着岸
田中吉政の饗応を受ける
  6 22   家康、吉田で池田輝政に迎えられる、夜、白須賀に宿泊
秀忠、大田原晴清に会津街道を封鎖させる
結城秀康、出陣
  6 23   家康、遠江浜松城に到着
堀尾忠氏の饗応を受け、中泉に宿泊
  6 24   家康、小夜中山を越えて掛川に到着、山内一豊の饗応を受け、駿河島田で宿泊
  6 25   家康、丸子に到着、中村一氏の饗応を受け、清見寺で宿泊
  6 26   家康、沼津に到着、中村一栄の饗応を受け、三島に宿泊
  6 27   家康、箱根を越え小田原に到着、宿泊
  6 28   家康、藤沢到着、宿泊
  6 29   家康、鎌倉鶴丘八幡宮で戦勝祈願
  7 1   家康、相模神奈川到着
  7 2 三成、大谷吉継を佐和山城に招く
三成は初めて家康討伐を鮮明にし、吉継は反対したと言われている
家康、秀忠の迎えを受け江戸城入城
  7 7   家康、江戸城で諸将を饗応し、会津への出陣を21日に定め軍令を発布
  7 8   先鋒、榊原康政出陣
  7 9 上杉景勝、白河城の修築を督促する  
  7 11 大谷吉継、再び佐和山城を訪れ三成と行動を共にすることを決意する
三成、この頃、安国寺恵瓊、増田長盛も誘う
 
  7 12 三成、大谷吉継、安国寺恵瓊、増田長盛ら佐和山城で挙兵計画を立てる
@ 総大将は毛利輝元
A 石田正澄を近江愛知川に派遣し、会津征伐軍参加の将を引き止める
B 織田秀信(織田家当主)に秀頼の後援を依頼
C 会津征伐軍参加の将の妻子を人質とする

三奉行連署により、毛利輝元に対し出馬要請
 
  7 14 安国寺恵瓊と吉川広家が毛利家が西軍につくか東軍につくか激論するも物別れに終わる
吉川広家、輝元に使者を遣わし、出陣を止めようとするも輝元とすれ違いとなる
吉川広家、榊原康政に輝元が西軍と無関係である旨の釈明書を送る
 
  7 16 毛利輝元、大坂城に入る  
  7 17 三成、宇喜多秀家、三奉行の総意により正式に毛利輝元を西軍総大将とする
毛利輝元、家康留守居を追い出し大坂城西の丸に入り、毛利秀就を本丸の秀頼付きとする
細川忠興室のガラシャ夫人、西軍の人質になるのを嫌い自害する

三奉行連署により諸将に対し、「家康には罪があるから、太閤の恩を忘れず秀頼に忠節を尽くしてほしい」旨の書状を出す(西軍挙兵宣言)

島津義弘、東軍方として伏見城に入城しようとするも逆に攻撃され、西軍に組することを決意する
 
  7 18 毛利輝元、伏見城の鳥居元忠に城明渡しを要求するも拒否される  
  7 19 島津義弘ら40000の軍勢で伏見城攻撃を開始 家康、増田長盛の密書により7.12の西軍密議の内容を知る
秀忠、出陣
  7 20 小野木公郷ら15000の軍勢で田辺城(細川幽斎)攻撃を開始(田辺城の戦い
大谷吉継、真田昌幸・幸村を西軍に誘う
 
  7 21 小早川秀秋、伏見城攻撃に参陣 家康、江戸城から会津に向け出陣
  7 23   家康、下総古河で会津征伐中止する旨、最上義光に書状を送る
  7 24   家康、下野小山に着く
  7 25   (小山評定)
家康、従軍した福島正則ら豊臣恩顧の武将に三成の挙兵、会津征伐を中止し反転して三成らを討つことを告げる
家康、諸将に対し「去就は自由」とするが、ほとんどの将が家康に従うことを誓う(上田城主・真田昌幸、岩村城主・田丸忠昌は東軍離脱)
  7 26   家康、諸将を上方に向かわせる
  7 27 真田昌幸、三成に書状を送り、西軍に属する旨の宣言と事前に相談しなかったことに対する不満を表明  
  7 29 三成、伏見城攻撃に参陣し指揮をとる  

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