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関ヶ原年表2 <前田利家の死後から上杉征伐直前まで> |
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年 | 月 | 日 | 西軍(三成方)関係 | 東軍(家康方)関係 |
慶長4年 (1599) |
閏3 | 3 | 襲撃を察知した三成が伏見の徳川邸に逃げ込む | 夜、加藤清正・黒田長政・浅野幸長・福島正則・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明らが大坂の三成邸を襲撃 |
3 | 8 | 伊達政宗、家康に異心なきを誓う | ||
3 | 10 | 三成、佐和山城に隠退 | 家康、結城秀康を護衛とし三成を佐和山城に送り届けさせる | |
閏3 | 13 | 家康、伏見城西の丸に入る 伏見城に入った家康を「多聞院日記」で天下殿と表現 |
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3 | 21 | 毛利輝元、家康に対し「父兄と思っている」との誓書を出す | 家康、毛利輝元に対し「兄弟のつもりでいる」との誓書を出す | |
4 | 2 | 島津義弘・忠恒の誓書に対し家康も誓書を出す | ||
5 | 29 | 前田利長、家康を自邸に招こうとするも断られる | ||
6 | 毛利秀元(輝元養子)が安国寺恵瓊に「家康には通じない」と誓約 | 6〜8月にかけ、伏見城の多くの武将が帰国し、家康の独断となる | ||
7 | 上 | 島津義久、秀頼に娘を人質として差し出す | 家康単独でタイの王に返書する | |
8 | 28 | 前田利長、帰国する | ||
9 | 9 | 家康、重陽の節供で秀頼に挨拶するため大阪城に登城する。 増田長盛、家康に前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久に家康暗殺計画ある旨、通報する |
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9 | 14 | 家康、会津に帰った上杉景勝に「大坂では特に変わったことがないから安心してほしい。」旨の書状を出す | ||
9 | 26 | 北政所、大坂城西の丸を出て京都に移る | ||
9 | 28 | 家康、大坂の屋敷として使っていた石田正澄邸を出て、大坂城西の丸に入城する | ||
10 | 2 | 家康襲撃計画に対する処分が決定し、浅野長政・大野治長・土方雄久蟄居または他家預けとなる。 | ||
10 | 6 | 家康、家臣の柴田左近を三成のいる佐和山城に遣わす | ||
10 | 24 | 家康襲撃計画の一味として細川忠興も嫌疑をかけられ、細川幽斎が家康に異心なきを誓う | ||
10 | 家康、前田討伐を決定する 前田利長、母・芳春院を江戸に人質に出すことを決める 細川忠興、三男・光千代を江戸に人質に出すことを決める |
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11 | 5 | 家康と上杉景勝、近況について書状の往復をする | ||
11 | 秀頼、病気にかかる | |||
慶長5年 (1600) |
1 | 1 | 諸大名、大坂城の秀頼のもとに年賀の挨拶をし、次いで西の丸の家康に挨拶する | |
1 | 9 | 家康、摂津茨木で鷹狩をして体調を崩す | ||
2 | 1 | 家康、単独により田丸忠昌の知行宛行を行う(家康単独による大名の転封の最初の例とされている) | ||
2 | 2 | 上杉景勝、出羽仙道筋の城普請を普請奉行に夏までに完成させるよう命じる | ||
2 | 8 | 上杉景勝、白石城の甘糟景継に同城の修築を急がせるとともに、伊達政宗の監視を命じる | ||
3 | 出羽山形城主・最上義光、大坂に上り、家康に上杉の不穏な動きを進言する | |||
3 | 11 | 上杉景勝の重臣、藤田信吉が徳川方に走り、内部告発する | ||
3 | 16 | オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、航海長ウィリアム・アダムスと乗組員ヤン・ヨーステンが家康に対面 | ||
3 | 18 | 秀頼、方広寺大仏殿に七重塔・講堂・廻廊を建設 | ||
3 | 22 | 家康、島津忠恒に「上洛は急がなくてよい」旨の書状を送る 秀忠、上杉景勝に「会津領内の普請は、領国の仕置のためであるから、もっとものことである。家康も気にしていない」旨の書状を送る |
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3 | 27 | 秀頼、摂津四天王寺を再興 | ||
4 | 1 | 家康、伊奈昭綱を使者として会津に遣わせ、景勝に上洛のうえ、非違八カ条につき陳謝するよう促す | ||
4 | 17 | 家康、大坂城を出て伏見城に入る | ||
4 | 18 | 家康、豊国社に参詣 | ||
4 | 22 | 家康、大坂城に戻る | ||
4 | 下旬 | 家康、この頃に会津征伐軍の先鋒を細川忠興、福島正則、加藤嘉明に命じる | ||
5 | 3 | 上杉景勝の重臣・直江兼続の返書が届く 家康、諸大名に会津征伐への出陣命令を出す |
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5 | 7 | 前田玄以、長束正家、増田長盛(五奉行のうち現役)・堀尾吉晴、生駒親正、中村一氏(三中老)が連署により、家康に会津征伐中止を申入れ | ||
5 | 17 | 前田家からの人質として、芳春院、江戸に向かう |