御三家を巡る話
 

1 はじめから御三家があったわけではない
2 家康の子供たちの運命
3 家康の秘蔵子、義直・頼宣・頼房
4 御三家の位置付け
5 御三家の特権
6 尾張家
7 紀伊家
8 水戸家

  はじめから御三家があったわけではない

 武家の歴史は戦いの歴史である。
 敵は外だけに限らず、父子・兄弟など同族の間の敵を抱えることも多かった。特に源氏では、同族間で熾烈な争いが繰り返されており、正に血塗られた系譜といっても過言ではない。(家康が源氏であるかは別問題として)そういう意味では、家康が同父の兄弟を持たなかったのは幸いだったかもしれない。

 しかしながら、関ヶ原の戦いに勝利するために、多くの豊臣大名の力を借りて薄氷を踏まざるをえない結果となったことは、家康に強力な一門衆の必要性を痛感させた事だろう。
 一門衆が脆弱であった場合、衰退の道を辿るしかないことは他ならぬ
秀吉が見本を示してくれているし、古くは自らの手で兄弟達を抹殺したために自分の血統が子の代にして根絶やしになってしまった源頼朝の例もあるのだから。

 関ヶ原の戦いの後、家康は、自分の子供達に大禄を与え、徳川家の覇権を支えさせるとともに一門衆の序列化を図ろうとした。しかし、同時に一門衆を強力にする事は、母屋を取られる危険を冒すことでもある。家康が身内に厳しかったと言われるのは、歴史を知っていたからだろう。

 一門衆の中でも家康の九男・義直に始まる尾張家十男・頼宣に始まる紀伊家十一男・頼房に始まる水戸家の徳川三家は御三家と称され、江戸幕藩体制の下で特別な地位を与えられている。

 家康は、はじめから後の世にいう御三家を想定していたのだろうか。実は家康存命中に三家が成立したわけではなく、
五代・
綱吉の時代まで紆余曲折の末に御三家の家格が成立したといわれている。そういう意味では徳川御三家は、家康の徳川一門創出構想の一環として成立したのであるが、家康の子供の中で家系を繋ぎえた結果、特別な家として扱われるようになったともいえる。
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  家康の子供たちの運命

 家康の子供としては、十一男五女が知られている。男子をあげると、長男・信康、二男・秀康、三男・秀忠、四男・忠吉、五男・信吉、六男・忠輝、七男・松千代、八男・仙千代、九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房となる。もっとも、「幕府祚胤伝」によれば、忠吉と信吉の間に松平民部、信吉と忠輝の間に小笠原権之丞がいたとされ、土井利勝内藤信成も家康の子であるとの言い伝えが記されている。

 家康が没した
元和2(1616)年当時の家康の子供達の状況を見てみよう。

生没年表
* 上の表の年齢は家康が没した時の年齢

 上の表から家康が没する時に生存していたのは、11人の息子のうち、三男・秀忠、六男・忠輝、九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房の5人だけである。

 このうち、
忠輝は一時、越後75万石とも言われる大禄を与えられたが、自身の不行跡により改易に処せられており、家康の子で将軍家を補佐する役柄は当然の如く、義直・頼宣・頼房にしか担えなかったのである。もし、秀康や忠吉が長命であったならば、当然に徳川一門の構成もかなり違ったものとなったに違いない。
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  家康の秘蔵子、義直・頼宣・頼房

 ところで家康の子供を見ると他家に養子に出された者が以外にも多い事に気付く。

二男・
秀康 ⇒ 羽柴秀吉結城晴朝(下総結城5万石城主)
四男・
忠吉 ⇒ 東条松平家
五男・
信吉 ⇒ 武田家(穴山氏)
八男・
忠輝 ⇒ 長沢松平家

 養子と言っても東条松平家、武田家、長沢松平家の場合は断絶となる家を継いだもので秀康の場合とは事情が違うが、その家臣団を統率する立場に立たされるという意味では生家を出される苦労を十分に味わったことだろう。

 これに対して、義直・頼宣・頼房は、比較的早い時期に出生した兄たちと違って、ほぼ天下を手中にした家康の膝下で育てられ、いずれも幼くして大禄を与えられ、高官に任じられている
 ここで3人の経歴等について、以下の表に簡記したので見ていただきたい。
  義 直 頼 宣 頼 房
生年 慶長5(1600) 慶長7(1602) 慶長8(1603)
生誕地 大坂城西丸 伏見 伏見
お亀
(山城岩清水八幡宮の下級神官の娘)
お万
(上総勝浦城主・正木頼忠の娘)
同左
幼名 千代君、五郎太丸 長福丸 鶴千代
経歴 慶長8(1603)4歳
 甲斐25万石を与えられる
慶長11(1606)7歳
 二条城にて元服、義知と名乗る(後、義利、義直)
 従四位下・右兵衛督に任官
慶長12(1607)8歳
 家康、頼宣、頼房とともに駿府城に入城
 忠吉死去により尾張一国を与えられる
慶長14(1609)年10歳
 居城を清洲から名古屋に移すため名古屋城の天下普請が各大名に命じられる(翌年竣工)
慶長15(1610)年11歳
 浅野幸長の娘と婚約
慶長16(1611)年12歳
 従三位・権中将兼参議に任官
慶長19(1614)年15歳
 大坂冬の陣で初陣
元和2(1616)年17歳
 家康死去
 名古屋城に入城
元和3(1617)年18歳
 権中納言に任官
元和5(1619)年20歳
 美濃国で5万石加増(総石高61万9千5百石)
寛永3(1626)年27歳
 従二位・権大納言に任官
慶安3(1650)年51歳
 江戸藩邸で死去
慶長8(1603)2歳
 水戸20万石を与えられる
慶長9(1604)3歳
 5万石加増
慶長11(1606)5歳
 二条城にて元服、頼将と名乗る(後、頼信、頼宣)
 従四位下・常陸介に任官
慶長12(1607)6歳
 家康、頼宣、頼房とともに駿府城に入城
慶長14(1609)年8歳
 加藤清正の娘と婚約
 25万石加増し、駿府・遠江・東三河50万石を与えられる
慶長16(1611)年10歳
 従三位・権中将兼参議に任官
慶長19(1614)年13歳
 大坂冬の陣で初陣
元和2(1616)年15歳
 家康死去
元和3(1617)年16歳
 権中納言に任官
元和5(1619)年18歳
 紀伊和歌山に転封(総石高55万5千石)
寛永3(1626)年25歳
 従二位・権大納言に任官
慶安3(1650)年49歳
 この年から万治2(1659)年まで江戸詰めを命じられる
寛文7(1667)年66歳
 隠居し、和歌山城西丸に入る
寛文11(1671)年70歳
 和歌山で死去
慶長10(1605)3歳
 常陸下妻10万石を与えられる
慶長12(1607)5歳
 家康、頼宣、頼房とともに駿府城に入城
慶長14(1609)年7歳
 15万石加増し、水戸で25万石を与えられる
慶長15(1610)年8歳
 家康側室・お梶の養子となる
慶長16(1611)年9歳
 従四位下・権少将に任官
慶長19(1614)年12歳
 大坂冬の陣で駿府城の留守居を命じられる
元和2(1616)年14歳
 家康死去
元和3(1617)年15歳
 江戸に入府
元和5(1619)年17歳
 水戸に初入国
元和6(1620)年18歳
 正四位下・権中将兼参議に任じられる
元和8(1622)年20歳
 常陸国で3万石加増(総石高28万石)
寛永3(1626)年24歳
 従三位・権中納言に任官
寛永4(1627)年25歳
 正三位に叙せられる
寛文元(1661)年59歳
 水戸城内で死去
 上の表を見ると家康の3人に対する溺愛ぶりがよくわかる。
 
慶長12(1607)年、家康は駿府城に移り、江戸との二元政治を始めるが義直・頼宣・頼房をそれぞれの領地に下さず、死ぬまで自分の手元に置いている

 もうひとつ、特徴的なのは義直と頼宣の官位を同時期に同位に昇進させている事である。頼宣と頼房が同腹であることを考えれば、頼房が一段下に置かれたことは致し方ないことかもしれない。
 このことが紀伊が尾張に対して同格意識を持つことになり、「柳営婦女伝系」などで御三家とは将軍家と尾張・紀伊を言うといわれる所以であろう。
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  御三家の位置付け

 このように御三家の藩祖となった義直・頼宣・頼房は、家康により将軍家である兄・秀忠を親族として補佐すべく位置づけられた。
 家康は死に望み、義直に対して秀忠は主人であるから決して逆らう事があってはならぬと言って聞かせ、秀忠には3人を子のように慈しんで欲しいと依頼したという。秀忠は家康の遺言どおり3人を遇し、秀忠在世中は将軍家と御三家の間に波風は立たなかった。

 三代家光の時代になると、家光の弟・
忠長が駿河、遠江55万石を与えられ独立する。忠長の官位は頼房より上位となり、序列では尾張・紀伊・駿河・水戸の順となり、当然ながら、この時期、まだ御三家という言葉は使われていない

 忠長自刃により、駿河家は断絶するが、秀忠が没すると
家光「今より後天下に主たる者我一人なり」と宣言し、御三家をも臣下として扱うようになる。
 義直ら三人にとっては家光は甥である、甥ではあるけれども宗家の当主にして武門の棟梁であって家光に弓を引く気は持ち合わせなかっただろう。しかし、彼らには家康の膝下により育てられた権現の子という強い自負がある。秀忠にも
「この後は、かたみに心を隔てず共和して輔翼(ほよく)せらるべし」と後事を託されている。

 ところが、家光はそうは考えていない、特に義直、頼宣と家光の間に軋轢が生じ、いろいろなエピソードが残されている。

 家光の嫡男・竹千代(後の家綱)の山王社初詣の儀の時のエピソードである。なお、松平信綱は時の老中である。

松平信綱  「御三家も竹千代様の初詣の儀にお供されるように」
尾張義直  「大納言である私が無官である竹千代様に徒歩でお供するのはいかがなものか」
松平信綱  「無官と申しても竹千代様は将軍の御子でござる」
尾張義直  「親の官位をいうなら、われら三人は太政大臣の子ではないか」
松平信綱  「上様のためであるからお供願いたい」
尾張義直  「典礼になきことをなされては返ってお上のためによろしくない」

 義直は頑固に拒否をし、お供をしなかったという。
 
 いつしか、幕府では御三家を敬して遠ざける風となり、当代の将軍家との血筋からいっても家光の後は将軍位を嫡男・家綱が継ぎ、家綱の時代に家光の三男・綱重甲府家、四男・綱吉館林家として独立し(両家を御両典という)たため、遠い存在となった。
 つまり、将軍家との肉親的な情誼を離れ、はっきりと別個な家として認識されたということであり、徳川姓を名乗る将軍家の藩屏として高位高官に昇る特別な家としての家格が固まっていったのである。

 ちなみに
「御三家」という言葉は、綱吉が将軍位に就いた年、延宝8(1680)年に初めて幕府文書中に現われている。
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  御三家の特権

 それでは御三家は他の大名家と比べ、どのような違いがあるのだろうか。
 武士の格式というのは官位や石高は当然として、参勤交代の際に許可されている持道具の種類や将軍に謁見する際の着座する畳の位置まで非常に些細な事までもが関連している。以下に挙げるのは御三家の代表的な特権待遇である。

1 将軍継嗣になる資格を持つ
 家康が将軍家に継嗣なきときは御三家が継ぐよう遺言したというがこれについては定かではない。しかしながら、江戸時代の武家のルールとして
継嗣なきときは同姓の同族から養子を迎えるということは至極、当然のことであって徳川姓を名乗る以上、徳川宗家=将軍家の養子になる資格を有するのである。

 事実、八代・
吉宗、十四代・家茂、十五代・慶喜(一橋家を経由)が将軍継嗣となっている。そういう意味でいえば秀忠の子・忠長の駿河家家光の子の御両典(甲府家・館林家)、吉宗の子・孫の御三卿(田安家・一橋家・清水家)も同様である。

2 江戸城内の詰所は「大廊下・上之部屋」
 大名の格式を語る時、禄高・官位官職の
極官(最後に到達する官位官職)とともに必ず併記されるのが殿中での詰所である。これは、即ち、殿中での席次を表し、上座か下座かという格好の判断材料となる。ちなみに親藩・譜代・外様という区別は後世のものであり、江戸時代にそのように大名を区別した史実はない。

 詰所は7つのグループに分けられており、格式順に並べると
「大廊下」「溜之間」「大広間」「帝鑑之間」「柳之間」「雁之間」「菊之間」となる。このうち、「大廊下」には上之部屋と下之部屋があり、「大広間」にはニ之間と三之間の別がある。
 詰所別に石高、官位、幕府役職、将軍との関係などの相関関係は、かなり興味深いのであるが、この話は別の機会に譲りたいと思う。

 なお、詰所は席次であるから、固定したものではなく移動することもあったのであるが御三家については「大廊下」は不動であった。実はこの「大廊下」は、江戸城絵図で見ると将軍の居る「御座之間」からは一番離れた位置にあり、まさしく「敬して遠ざける」といった感がある。
 また、御三家間の席順であるが、必ずしも尾張・紀伊・水戸の順ではなく、初めは官位順、後には家を相続した時期の早い順であったという。時代によっては水戸が尾張・紀伊の上座につくこともあったのである。

3 官職の極官は大納言・中納言
 大名家の官位は、幕府の奏請により朝廷から賜ることとなっており、大名家によって初叙任の官位と最終叙任の官位(極官)は、ほぼ定まっていた。ただし、功績等により一代限り高位に就いたり、諸事情から極官に昇れない場合も例外としてあった。

 御三家の官位は将軍家を別とすれば最高のものであって、尾張・紀伊の初叙任は従三位宰相、
極官が従二位大納言、水戸の初叙任は従三位中将、極官が従三位中納言であった。ちなみに御三家・御三卿以外で一番高いのが前田家で、極官が従三位上宰相であった。

 なお、大納言・中納言の
「納言」というのは「下の言を納(い)れ、上の言を下に宣(の)ぶる」という意味である。また、大納言を亜相、中納言を黄門ともいい、ここから「水戸黄門」といわれるのであって、水戸光圀だけが水戸黄門であったわけではない。
 黄門というのは中国の王朝・秦や漢の時代の職名で宮門の扉が黄色であって、その内で政務を執ったことに由来している。

4 大名行列の通行優先権
 参勤交代や江戸城に登城の際には、大名行列が行き交うこととなり、注意しなければ他家の大名行列と行き会う場合がある。普通の場合はお互いに片道を空けて、それ相応の礼を尽くしてすれ違えば良かったが相手が御三家の場合は、そうはいかなかった。道を空けるのはもちろん、脇によって通過を待たねばならなかったのである。藩主も駕籠を降りて礼を尽くさなければならなかった。

 御三家の場合、行き会った相手が勅使であっても片道を空けるだけで、すれ違ったというから他の大名家にあっては、いかんともしがたいところであった。
 ただ、実際は先駆けの者が進行方向に他の大名行列がないか確認し、相手が御三家や勅使などの場合は、脇道に避けたようである。小身の大名の場合は列を乱して、脇道に隠れたというから御三家の威光恐るべしである。

 また、参勤交代の際は、他の大名家の城下町を通る事もあり、御三家が通る際には、藩主が出迎えに出なければならなかった。それに対して御三家の藩主は
「出でられ候か」と声を掛けるだけであった。
 なお、大名行列が通行する際、TVなどでは
「下にー、下にー」と声を掛けているが、あれは御三家に限られた事であって、老中といえども、そのような掛け声はなかったという。

5 御三家に領地判物なし
 幕府は大名を統制するため、家康・秀忠・家光の時代に大規模な改易(領地没収)、減封(領地を削る)、転封(領地を変える)などにより、いつしか大名家の領地は将軍家に安堵されたものであるという考え方が一般的となった。

 そのため、原則として藩主の代替わりに将軍家に所領安堵をしてもらい、また、将軍家の代替わりにも所領安堵してもらわなければならなかった。その方法は、10万石以上の大名に対しては将軍の花押がされた
領知判物、それ以下では将軍の領知朱印状を持って行われ、これに領地の郡村名を記した領地目録が添えられた。

 御三家に対しては、他の大名と違い、この領知判物が発給された形跡が見当たらない。ただし、家康が義直に尾張を与えた際に、将軍・秀忠から領知判物が出されているが代替わり毎に出されてはいない。
 これは御三家の領地は、幕府の直轄領と同様であるという考え方なのか、将軍家の所領安堵権が御三家には及ばないものであるという考え方なのか判然としないが、いずれにしても手続き的に
将軍家の所領安堵を必要としないというのは、御三家が特別な存在であるという証である。

6 御三家は誓詞不要
 慶安4(1651)年、三代・家光が死去すると、嫡男の家綱が将軍位を継いだ。この時、家綱はまだ11歳と幼かったが、家綱にとって叔父にあたる保科正之をはじめ前代の遺老である酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋が健在であったため、幕府に大きな動揺がなかったとされている。

 更に万全を期すためか、
幕府は諸大名等から誓詞を提出させている誓詞とは、神仏に誓う形で誓いを書式にしたもので、この場合は諸大名等が将軍に対し、忠節を誓約するというものである。この後、将軍が代替わりする度に誓詞を提出することが慣例化する。

 誓詞は諸大名が自発的に提出するという形をとるため、手続き上は一旦、老中に提出の伺いを立てなければならなかった。諸大名がこぞって誓詞を提出する中、御三家も提出伺いをしたところ
「御三家は自余の輩に比すべきにあらず」と誓詞に及ばざることを告げられた。
 もっとも、翌年には将軍が幼年につき、御三家は在府(江戸に留まること)して、将軍を補佐するように申付けられており、御三家を信頼して誓詞を取らず、在府させたものか、警戒して在府を申付けたのか、その真意はわからない。
 なお、誓詞免除は初めからではなく、八代・吉宗からとする説もある。

7 御三家の下乗位置
 諸大名、諸役人が登城する際は、その身分によって駕籠や馬を降りる位置や供の人数が制限されていた。
 式日などで登城する場合、普通は
大手門内桜田門から入城して三之門中之門中雀門(ちゅうじゃくもん)を通って、本丸御殿玄関に至る

 大手門も内桜田門も門前に橋が掛かっており、その手前に
「下馬札」が掲げられていて大名、役高500石以上、高家、交代寄合、50歳以上の者以外は、ここで駕籠や馬を降りて供を減らし徒歩にならなければならなかった。
 一般大名は更に奥に入り、三之門の門前の橋の手前まで駕籠で入る事が出来た。この場所は絵図などでは
下乗と書かれている。
 更に
御三家や日光門主の場合は、中之門の手前まで駕籠を使う事が出来た。ただし、資料によっては中雀門前まで駕籠を使えたとするものもある。

8 佩刀持参の特権
 江戸城の殿中では、老中といえども
佩刀を持ち込むことが出来ず、玄関で刀番に預ける定めであった。殿中では脇差のみ許されていたのである。
 ただ、御三家については、佩刀の持参が許されていたのである。もちろん、腰には脇差一本であったが従者が刀を手のひらに寝かせて、高い位置で捧げ持つのである。

 ちなみに、将軍家の刀持ちは御三家が刀を横に寝かせるのに対して、刀を立てて持っていた。
 なお、佩刀(はいとう)というのは腰に差す刀(愛用の刀)という意味である。

9 「御対顔」と将軍家の言葉
 将軍家が大名を謁見する場合、これを
「御目見」(おめみえ)というが、御三家の場合は「御対顔」という。この呼び方に将軍家との関係の違いが如実に現われている
 将軍家は御三家との謁見の際には敷物もはずしたといわれ、将軍家の方でも御三家に対しては特別に礼を尽くしたようである。

 また、御三家に対する将軍家の言葉は敬語が使われており、他の大名に対するものと比べても違いがある。「御覚控」という史料によれば十代・
家治が参勤交代で就封(国元に帰ること)する大名に次のように語ったと記録されているようである。

 尾張家
 「寛々休息
あらるゝ様ニ、目出たう盃を」(ゆるゆると休息されるように、おめでとう盃を)

 松平肥後守(会津松平・溜之間詰)へ
 「在所えの暇をやる、休息
するやうニ」(在所への暇をやる、休息するように)

 松平肥後守といえば
保科正之以来の将軍家ゆかりの家であり、溜之間という高い格式を誇る名門であった。それと比べても「休息あらるゝ様ニ」と「休息するやうニ」というのは、御三家に対する将軍家の礼が顕著に表れていると思うのだが、いかがだろうか。

10 公役等の免除
 幕府の大名に対する統制政策として改易・転封、参勤交代と伴に効果的であったものに
軍役・御手伝普請などの賦課がある。
 御手伝普請とは、幕府の命により他国の普請を行うことであり、命を受けた大名家の経済面での負担は非常に大きなものであった。具体的には、江戸城、大坂城、名古屋城などの築城、木曽川などの河川改修、社寺の建立などがある。

 特に有名なのが薩摩藩による木曽三川の
「宝暦治水工事」で藩士に80名近い犠牲者を出し、責任を取って家老が切腹、そして薩摩藩の財政を極度に悪化させるものであった。このような例は薩摩のみならず、同じく長州藩、岩国藩、越前小浜藩でも木曽三川の治水工事に1000名を越える藩士が従事している例がある。

 ところがこのような公役の負担は、基本的に
御三家に対しては命じられてはいない。もっとも、寛永5(1628)年江戸城普請で尾張藩が伊豆国より石を運ぶ役を命じられているが、このような例は稀である。

 ただし、公役が大名に負担を強いた事は否めない事実としても、この負担が大名家の家格を左右した一面も忘れてはならないだろう。
 特に深刻な財政難に陥る江戸中期以前においては、普請などで同格の他藩より少ない役高を命じられる事は、家格に関わる重大事であるため相当の役高を命じてもらわなければならなかったのである。 
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