幕府のおもしろ役職<解説>
 
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 大 老   

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 老 中

 「万機の政を統ぶる人臣の極官」(明良帯録)とされているように大老が置かれていない時は最高の要職であった。

 人数は時により変わったが月番一人を決め交替で勤務した。非番であっても毎日登城し、継続案件の処理にあたった。登城は午前10時で帰城は午後2時であった。勤務時間が短い感があるが老中が特別だった訳ではなく、この時間帯が一種の標準時の感があって、寺子屋の子供もこの時間帯と同じであった。

 月番老中は、案件について禁裏関係は京都所司代等、大名関係は大目付に調査させたうえ奥祐筆に書類を作らせ決裁し、重要案件は御側御用取次を通じ将軍に提出する。たいていは「伺之通りたるべく候」という紙片をはさんで下げられるが、直接、御座之間で将軍に説明することもあった。

 また、月番老中は「対客日」を決め、登城前に役宅で政治上の陳情や意見具申を聞いた。ただ、時代劇で出てくるような役宅に配下の者を呼び出しするというようなことはなかったようである。対客日以外は政務向きのことは役宅で行わないのが原則であったし、配下の旗本であっても徳川家家臣としては同列であるから役宅に呼びつけることは失礼であったのである。

 非番老中も増上寺、寛永寺への将軍の代参や上使として大名家に訪問するなど概して激務であったようである。

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 寺社奉行

 寺社・町・勘定の三奉行の中で、寺社奉行だけは大名役でその格は高く、しかも奏者番を兼ねることが多かった。
 奏者番に任命されること自体が次代のエリートの証明であるが、その中から更に優秀な者が寺社奉行に任命されたからエリート中のエリートということになる。

 事実、寺社奉行から大阪城代、京都所司代、若年寄などを経て、老中に昇るというのが、いわば出世街道であった。

 職務は、全国の神官、僧侶、寺社領および門前町の人たちを治め、その訴訟を審理することである。下僚は訴訟関係の事務を担当する「吟味物調方」、神社・寺院を見回り神官・僧侶の素行を調べる「大検使」「小検使」がいたが、これら下僚は全て自分の家臣であった。このことが寺社奉行の大きな特徴であった。

 町奉行として名高い大岡越前守忠相も晩年、寺社奉行に異例の抜擢をされている。つまり忠相は二千九百二十石の旗本であり、大名職であるはずの寺社奉行につけるはずがないからである。将軍吉宗は、二千石の加増と足高(職録)四千八十石を与え大名格としたのである。

 ただ、忠相にとっては町奉行から棚上げされた格好であり、決して喜べる出世ではなかったようである。はじめ、奏者番には任命されなかったため、同僚の寺社奉行に控室に入れてもらえず、休息する控室もないまま殿中の廊下をうろうろするはめになるなど、周りの風当たりも強く、しかも年齢が60歳を超えていたため、かなり苦労したようである。
 ただ、いずれにしても町奉行から寺社奉行という異例の出世を遂げたのは後にも先にも大岡忠相、ただ一人である。

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 大目付

 老中支配で旗本の中から選任された。
 職掌は、大名・交代寄合(万石に近い旗本)・高家(幕府の礼式を司る職)の監察である。具体的には大名居城の修理を監視、大名等への布令や病欠届の受理、殿中の式日には大名の席を正したりもした。
 大目付のうち、一人は道中奉行、一人は宗門改を兼ねるが概してあまり忙しい職ではなかった。

 職掌上、大名並みの待遇を受け、従五位下に叙せられ、年始には大紋を着し折烏帽子をかぶり、末広扇子を持つことを許された。

 大目付は老中支配といいながらも、将軍に直接言上できたし、老中も大名であるから老中を監察することもあった。
 逆に大目付は目付(旗本以下を監察する職で大目付とは別物)に監察され、目付は同役で互いに監察しあい、同役の蹴落としが激しかったと言うから、大名や役人の世界の窮屈さが知れる。


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 側衆・側用人・側御用取次

 側衆、側用人、側御用取次とも将軍に最も近侍し、将軍の見落としたところを補う役職であった。側衆は、普通二、三千石の旗本から3〜5人選ばれ、更にその中から将軍直々に1〜2人の側用人・側御用取次を選ぶことがあった。

 側用人は将軍の寵臣で政治の向きの話し相手でもあったが常置の職ではない。
 側用人は、天和元(1681)年に五代将軍綱吉が牧野成貞を任じたのが最初である。成貞は館林時代の家老で綱吉の将軍就任とともに側衆になり、側用人になってからは7300石の大名に取り立てられている。

 また、八代将軍吉宗は政務上の補佐の目的で側御用取次の職を新たに設けた。(初代は紀州藩より入った有馬兵庫頭氏倫加納遠江守久通
 側御用取次は宿直なしで毎日登城し、老中・若年寄と将軍の間を往復し決裁を処理していった。
 側御用取次ともなると秘密事項を扱うのは常であるから、就任に当たっては、誓詞に血判し、秘密を守ることを誓い個人的な付き合いは慎まねばならなかったし、また、原則として高禄を与えられることはなかった

 しかし、その権勢は大きく将軍に対し、「それはなりません」と意見を言うこともあったし、老中に対し「左様なことは言上できませんから直に御言いなさい」と取次拒否をすることもあったという。

 いずれにしても、側用人や側御用取次を設けた理由は口うるさい譜代衆(特に老中)から実権を将軍が取り戻すためのものであったといえる。


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 町奉行

 町奉行の職務は、今で言えば東京都知事兼警視総監兼東京地方裁判所長である。つまり江戸府内の民政(訴訟・警察を含む)を行うのが職務である。
 このように職務は多岐に渡り激務であったことから旗本の中でも特に能力の高い者が任命された。

 ただし、町奉行の支配が及ぶ地域は江戸の武家地・寺社地・町地のうち町地のみであり、これは全体面積の20%程度であったと言われている。
 また、支配が及ぶのは町人・浪人・盲人で幕臣はもちろん藩士、僧侶、百姓等には原則として支配が及ばなかった。これらの支配関係は厳密で複雑であり一口に説明できるものではない。(現代の縦割行政の比ではない。)

 奉行所の場所は、南町奉行が数寄屋橋門内で北町奉行が呉服橋門内。奉行所の奥向きが奉行の居住場所であった。

 最後に町奉行の執務ぶりを見てみよう。
 朝8時前に奉行所に出勤10時登城午後2時に下城して政務をとる。この他評定所の式日や月3回の内寄合にも出席しなければならず、奉行所の右小門は夜間でも急訴に備え開けられていたといい、実質、年中無休で超多忙であった。
 ただ、南北両奉行は月番制で執務を行っていたから、非番の時には原則、登城せず、新規の訴えも受理せずに、月番中に溜まった案件を処理することができた。

 それでも、訴状を事前に吟味する余裕などなく、ぶっつけ本番で原告・被告の言い分を聞きながら訴状を読むのが現状であった。複雑な事案だと「追って沙汰する。」ということで、調べを配下の与力に任せた。ある意味、奉行の能力は如何に適任の与力を選別し、任せるかにかかっていると言うことも出来る。
 そして、その結果を元に奉行が結論を言い渡すことになるのである。


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 高家

 高家といえば、忠臣蔵の吉良上野介が著名であるが、そもそも高家とはどんな存在なのだろうか。

 高家の名は、室町時代から存在し公家とも書く。領土の多いものを大名、族性の高いものを高家というという説がある。単に高家と言った場合に幕府の役職を指すのか、家柄を指すのかわからないところがある。

 高家には、高家全体の世話役たる高家肝煎(吉良上野介は肝煎)や非役である表高家があり、表高家は、年始・歳暮・五節句に登城し拝賀するのみであって日常的な職務はなかった。

 徳川幕府の職制上の高家は、秀忠の時代に室町将軍の縁故である石橋・吉良・品川家の三家を登用したに始まる。延宝年間(家綱・綱吉治世)に十六家、寛政年間(家斉治世)に三十一家、幕末には二百家にもなったという。幕末であれば、相当数が表高家であったと考えられる。

 高家は、幕府の儀礼典礼を司るのが職務で、具体的には朝廷への使節、勅使・院使の接待、伊勢・日光への代参、宮中の作法を司ることなどであった。もともと、家柄が高く、朝廷に接する機会も多いことなどから、禄高はせいぜい五千石が最高であったが官位は四位中将まで進むことができた。
 四位中将といえば、井伊・会津クラスの官位でその上は、将軍は別格として御三家御三卿、前田家しかないほどの高位である。
 また、特定の大名家の「昵近衆」として儀式作法の顧問報酬を受けることがあり、結構な実入りがあったといわれる。

 このように高家は、禁裏公家に対する儀式を預かり武家にして公家にも似た一種独特の家であったのである。ちなみに同じ掌典職である奏者番は、専ら武家に関する儀式を預かる点で高家と相違している。

高家一覧表(文政5(1822)年文政武鑑より)
名  前 官  位 禄  高
高 家 大沢右京大夫基之 従四位上侍従(高家肝煎) 3550石
戸田備後守氏倚 従四位上侍従(高家肝煎) 2000石
中条河内守信義 従四位上侍従(高家肝煎) 1000石
宮原弾状大弼義周 従四位下侍従 1140石
織田豊後守信順 従四位下侍従 700石
畠山飛騨守義宣 従五位下侍従 3100石
上杉中務大輔義長 従五位下侍従 1496石
由良播磨守貞陰 従五位下侍従 1000石
今川刑部大輔義用 従五位下侍従 1000石
横瀬駿河守貞征 従五位下侍従 1000石
前田信濃守長粲 従五位下侍従 1000石
大沢修理大夫基休 従五位下侍従 600石
武田左京大夫信典 従五位下侍従 500俵
表高家 畠山左衛門基利 5000石
織田主殿信味 2700石
織田大膳長孺 2000石
六角頼母 2000石
日野岩丸 1530石
京極采女高正 1500石
吉良中務義房 1425石
長沢大蔵資言 1400石
前田繁之助長晧 1400石
大友左京義智 1000石
土岐■之助 700石
有馬繁丸 500石
品川内記 300石

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