大老職一覧
 

 将軍補佐を職とする臨時職で12人が就任したのみである。
 老中が原則十万石以下の譜代大名であるのに対し、大老は土井・酒井・堀田・井伊の四家に限られていた。十万石以上で四家以外の場合は大老といわず「将軍補佐」「後見」「政治総裁」といった。

 就任に際しては、将軍から「老中の上に立ち諸事遠慮なく念入りに申し談ずるよう。もっとも、月番・加判は致すに及ばず。」と命じられたと言う。

 大老の権勢は相当なもので出勤すると老中が揃って御辞儀をし、その姿は、あたかも将軍に対するもののようであった。また、身の回りの世話は同朋が行い、刀も自分では持たなかった。
 大老の決裁は将軍でも覆せなかったといわれている。

 ただ、もちろん将軍あっての大老であり、毎日、御側衆に対し平身低頭し「今日の御機嫌を伺います。」と挨拶しなければならなかった。御側衆は決まって「ますます御機嫌よういらせられます。」と答えたといわれる。

 以上のような、大老の形式的な権勢は、ともかく、実際の政治にどれほどの影響を与えたかについては実は、不明な部分も多く、将軍に変わり実質的に幕政を掌握した者もいれば、名誉職的な大老もいたようである。 

 

* 資料により、多少の違いが見られることを了解していただきたい。
* 藩名は、文久2(1862)年当時のものを使用したため就任時の領地と相違する場合がある。
* 柳沢吉保は、大老格である。

氏  名 藩 名 就  任 退  任
さかいうたのかみただよ
酒井雅楽頭忠世
播磨姫路
二代藩主
寛永13(1636)年3月12日 寛永13(1636)年3月19日
どいおおいのかみとしかつ
土井大炊頭利勝
下総古河
初代藩主
寛永15(1638)年11月7日 正保元(1644)年7月10日
さかいさぬきのかみただかつ
酒井讃岐守忠勝
若狭小浜
二代藩主
寛永15(1638)年11月7日 明暦2(1656)年5月26日
さかいうたのかみただきよ
酒井雅楽頭忠清
播磨姫路
四代藩主
寛文6(1666)年3月29日 延宝8(1680)年12月9日
いいかものかみなおずみ
井伊掃部頭直澄
近江彦根
二代藩主
寛文8(1668)年11月19日 延宝4(1676)年1月3日
ほったちくぜんのかみまさとし
堀田筑前守正俊
下総佐倉
初代藩主
天和元(1681)年11月12日 貞享元(1684)年8月28日
いいかもんのかみなおもり
井伊掃部頭直該
近江彦根
三代藩主
元禄10(1696)年6月13日 元禄13(1700)年3月2日
やなぎさわみののかみよしやす
柳沢美濃守吉保
大和郡山
初代藩主
宝永3(1706)年1月11日 宝永6(1709)年6月3日
いいかもんのかみなおもり
井伊掃部頭直該
近江彦根
三代藩主
正徳元(1711)年2月13日 正徳4(1714)年2月23日
いいかもんのかみなおゆき
井伊掃部頭直幸
近江彦根
十一代藩主
天明4(1784)年11月28日 天明7(1787)年9月1日
いいかもんのかみなおあき
井伊掃部頭直亮
近江彦根
十三代藩主
天保6(1835)年12月28日 天保12(1841)年5月13日
いいかもんのかみなおすけ
井伊掃部頭直弼
近江彦根
十四代藩主
安政5(1858)年4月23日 万延元(1860)年3月3日
さかいうたのかみただしげ
酒井雅楽頭忠績
播磨姫路
十六代藩主
慶応元(1865)年2月1日 慶応元(1865)年11月12日