四代 徳川家綱 |
EPISODE1 |
家綱が将軍職を継いで間もない頃、即ち家綱が少年時代のこと、江戸城本丸の天守閣に上った際、側近の者が遠眼鏡をすすめたところ、「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない。」と遠眼鏡を手にしなかったという。
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EPISODE2 |
遠島になった罪人の話を聞いた家綱は、彼らは何を食べているのだろう、と近臣の者に尋ねたが誰も答えることができなかった。そこで、家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか。」と言った。
それを、聞いた家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ。」と命じ、流人に食料を与えるようになったという。 |
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EPISODE3 |
家綱が食事をしていた時、汁物を飲もうとすると髪の毛が入っていた。家綱は平然と髪の毛を箸でつまんで取り出したが、小姓があわて新しいものと交換しようとした。
家綱はその小姓に対し「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように。」と言った。
これは椀を空にすることにより、普段のおかわりと同様に扱えということで、咎められる者が出ないようにとの配慮からであった。
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五代 徳川綱吉 |
EPISODE1 |
生類憐みの令により民衆を苦しめたことで有名な綱吉であったが、まだ将軍宣下を受ける前から直轄領の代官たちに次のとおり諭したとされる。
「支配者が寛やかに民を扱うと、民は奢りに走り本業を怠る。奢侈を許してはいけない。民は為政者を信用していない。為政者もまた民を疑っている。このようなことが起こらないように意思の疎通に心がけよ。
代官等は率先して身を慎み、職務をよく理解し、年貢の収納に努め、下役に任せ切りにせず、自らが先に立って職務に精励することが肝要である。」
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EPISODE2 |
将軍職をついでまだ日が浅い延宝9(1681)年6月、前代に裁きが終わっていた松平光長家のお家騒動について、当事者の小栗美作と永見大蔵を呼び出した上で綱吉自身が前将軍の決定を覆す採決をした。
すなわち、松平光長は領地没収、小栗美作父子に切腹、永見大蔵に遠島と決定したのである。
この時、老中堀田正俊が決定を言い渡した後、綱吉は「これにて決裁す、はやまかり立て」と大音声で言ったという。 |
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六代 徳川家宣 |
EPISODE1 |
前将軍綱吉は「生類憐みの令」を厳守することを遺言したが、家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩の前で柳沢吉保に次のように言ったという。
「生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする。」
この時、罪を許された者は八千数百人にも上ったという。
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EPISODE2 |
家宣が死の床についたとき、間部詮房を通じ新井白石に将軍継嗣について次のように相談したという。
「鍋松(家宣の子、当時4歳)は幼く、古来、幼主の時に世が平穏であったためしが少ない。また、天下の事は私すべきものではない。
東照宮が御三家を立てられたのは、このような時のためであるから、自分の後は尾張殿に譲り鍋松が成人した折には、尾張殿の心に任せた方が良いか、あるいは鍋松が成人するまで尾張殿には西丸にいて政治を執ってもらい、不幸にして鍋松が死んだ場合に尾張殿に将軍家を継いでもらった方が良いか、この2案のうちどちらが良いか。」
白石は2案とも反対し、鍋松を継嗣とし、譜代の臣がこれを支えることを進言したので家宣もそのとおりとし決し、まもなく死去した。 |
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七代 徳川家継 |
EPISODE1 |
四歳の幼い身で将軍となった家継にとって、側用人 間部詮房は父のような存在であったという。詮房が出かけ戻ってくる時には「越前(詮房のこと)を迎えに出よう」といって外で待っており、帰ってくるとうれしそうに間部に抱きついたという。
また、逆に他の者が遠慮して言えないことであっても、間部からはきつく叱られた。家継が聞き分けがない時は「越前が参ります」というとおとなしくなったという。
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EPISODE2 |
日光輪王寺宮が登城して帰る際、深く頭を下げる宮に対して、家継は軽く会釈して見送った様子はとても自然で大人も及ばないほどの態度であった。 |
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