歴代将軍の逸話集 | ||
十二代 徳川家慶
EPISODE1 家慶が将軍になったのは44歳の時であり、かなりの高齢だが、それでもまだ前将軍の家斉が大御所として実権を持っていたので家慶は、政務に対する情熱を持てなかった。
そのせいか家慶に決裁を仰ぐと下問もなく「そうせえ」と言うのみであったため、「そうせえ様のお許しである」と陰口を叩かれていたという。EPISODE2 家斉が死去し、家慶の親政が実現した天保12年、老中達に対し家慶の改革に対する考え方を布達した。
それには、弛みきった幕政を享保・寛政期の原則に戻すことを根本原理に据え、「たとえ将軍の沙汰であっても規定に触れるものや不条理であるものは、遠慮なく申し出るように」という自らの恣意性をも否定する強い決意が秘められていた。十三代 徳川家定
EPISODE1 家定は、多病であり非常に癇が強く、本人の意思にかかわりなく首や手足がピクピク動くという体質を持っていた。
また、天然痘にかかって、顔にあばたがあったため、人に会うのも嫌がる傾向があった。
好んでしたことは自ら、薩摩芋や唐茄子を煮たり、饅頭やカステラを作ることだったという。EPISODE2 1855年12月、アメリカ領事タウンゼント・ハリスは家定に謁見した時の家定の様子を次のように書きとめている。
「大君は自分の頭を、その左肩を超えて後方へぐいっとそらしはじめた。同時に右足を踏み鳴らした。これが三、四回くりかえされた。それからかれは、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりとした声で次のように言った。
『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足しています。また使節の口上についても満足しています。両国の友好は永遠に続くでしょう』」
ハリスは、家定の挙動が尋常でない姿を見ても、その知性に疑いを持たなかったのである。十四代 徳川家茂
EPISODE1 公武合体の具体策として皇女和宮を御台所に迎えた家茂であったが、和宮に対し非常に気を使い、あれこれ贈り物をし、お付の女中にまで物を配ったという。
後に、家茂は松平慶永に「公武の間柄のためには和宮様と睦まじくなることが大切だと思い努力した。」と語ったとされている。EPISODE2 勝海舟は順動丸に家茂を乗せ大阪湾を一巡した時に家茂を評し、「将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり」と書き残している。
十五代 徳川慶喜
EPISODE1 後に神君家康公の再来と言われた慶喜がまだ、七郎麿と呼ばれていた子供の頃、祖母にあたる瑛想院が七郎麿をきびしく叱りつけたところ、恐れ入るどころか「なんだ、この坊主め」と言い、瑛想院の頭を思いっきり打ったという。
瑛想院は七郎麿の剛毅な態度を逆に気に入り、特に七郎麿を愛したという。EPISODE2 慶喜が大政奉還を申し入れたことを聞いた坂本龍馬は次のように言ったという。
「将軍家の今の心中は察するに余りある。よくぞ決心されたものだ。この後、もし慶喜公の身に万一のことがあれば、自分は誓って、命をかけて慶喜公をお守りする。慶喜公が天下ために公正な処置を取ってくれたことに対し、自分は感謝せずにはいられない。」