武士の時代バナー 戦闘の手順・方法
 

 実際の戦闘の手順・方法は時代によって変化した。大きくは、応仁の乱を境とする変化である。即ち、個人戦から集団戦への変化である。

 応仁の乱以前は戦闘に入ると、各々が敵を見つけ互いに名乗りをあげ、系譜を言い、戦歴などを披露したうえで戦闘に入る。名乗りもせず、後から切りつけるなどということは卑怯とされた時代である。
 戦闘の単位も多くとも数千という程度で、個人戦が主であるため大将の命令で臨機応変に陣形を変えるような統制はとれなかった。

 応仁の乱後は次第に戦闘が大規模化し、武器も鉄砲の登場で大量殺戮が可能となり、死傷者の割合も大きくなっていくのである。

 また、戦の大規模化の当然の結果として戦を行うための準備期間も長くなり、費用も格段にかかるようになる。平時においていかに金を集め、いつでも兵を投入可能な状態にしておくかというようなシステムを構築しておかなければならない。

 このことが兵自体の強さから言えば「三河兵一人に尾張兵三人」といわれ、その三河兵も甲州兵には全く歯が立たなかったといわれながら、信長が戦国の覇者となった所以である。

 ここで戦国時代の標準的な戦闘の手順についてであるが、前から鉄砲隊、弓隊、槍隊、騎馬隊の順で構え、敵が近づいてきたところを鉄砲隊で狙い、鉄砲隊が打ち終わったら弓隊が前に出て矢をあびせる、ひるんだ敵に槍隊が隊列を組んで突撃し、最後に騎馬隊が勝負を決める、という具合であった。