智謀の人 小早川隆景
 
1 隆景の人物像

2 隆景の略歴

3 隆景の逸話
毛利輝元が築いた広島城
日本の名城100選提供)
小早川隆景
 隆景の人物像

 小早川隆景は
毛利元就の三男である。
 父・元就は堪忍の上にも堪忍を重ね、類稀な計略・調略の才により、西国の覇者となった武将であり、その実力は謙信・信玄にも匹敵するといえるだろう。

 元就には9人の男子がいたが、その資質を最も色濃く受け継いだのが隆景であるといわれている。

 小早川隆景と聞いて連想されるのは、
「三本の矢の教訓」や関ヶ原で東軍勝利の決定的要因を作った秀秋の養父ということで隆景本人を語るものは以外に少ない印象がある。

 隆景は長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに
毛利の両川として毛利家を支え、元春が九州の陣中で没すると、隆景一人で隆元の遺児である当主・輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がなかった。

 信長の下で毛利と対決してきた秀吉は敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価していた。
 秀吉政権下では、隆景が後に
五大老といわれた重臣として遇されたということは意外と知られていない。

 たとえば、文禄4(1595)年の掟書では塗輿の使用が許されるのは、武将では徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、小早川隆景のみである。
 また、この頃、秀吉は東国の
法度・置目・公事は家康に、西国は輝元、隆景に申し付けたとされている。

 これほど秀吉に親任された隆景であったが、秀吉に先立ち亡くなったため後世に印象が薄くなったのであろうか。

 秀吉が隆景を厚遇した理由は、
本能寺の変の際、秀吉の中国大返しを追撃しないということで毛利を統一したことが挙げられる。
 高松城下で講和した時、毛利方は本能寺の変を知らなかったとされるが、果たしてどうであったか。おそらくは、雑賀衆などから情報は入っていただろうと思われる。(また、一説には秀吉が毛利側にありのまま伝えたとも)
その上で、毛利の行く末を熟慮しての重い決断だったのだろう。
 隆景がいなければ、もしかしたら毛利はなかったかもしれない。毛利がなかったとしたら、関ケ原はどうなっていただろう。幕末の動乱はどうなっただろうと思いを巡らすのは、飛躍しすぎだろうか。

 話は戻るが、秀吉政権下に組み込まれた毛利は
雑賀攻め、長宗我部攻め、島津攻めなど西国平定に大いに働き、隆景は若い輝元を立て、実質的には毛利の総指揮官として働いている。

 秀吉は、再三にわたり、隆景を独立した大名として扱おうとするが隆景は固辞し続けたといわれる。しかし、ついには九州平定の功により
筑前・筑後二郡・肥後二郡を与えられることになる。

 九州に居城を得たことにより、隆景は
朝鮮の役にも高齢を押して出陣する。
 朝鮮での戦況は、はじめこそ秀吉軍の優勢であったが戦線が伸びすぎた事、食料の欠乏、朝鮮民衆の蜂起により形勢は逆転し、戦いの続行が不可能な状態に陥った。
 一説によると、この時、石田三成は徹底抗戦を主張し、隆景がこれに反対するという形で諸将の意見を求め、撤退することに決したという。もちろん、これは三成と隆景の腹芸であったのだろう。

 撤退を主張した隆景は、
碧蹄館の戦いで二万の朝鮮軍を引き受けて、これを破り、やっと秀吉軍は撤退することができた。


 フロイスは、
「日本史」の中で「小早川殿は日本では、その名を知られ、類稀なる才能によって非常に尊敬される人物である。その知識と努力により毛利家の領する九カ国を良く治めており、この国で長い間、戦乱も謀反もなく数カ国を治めることは珍しいことである。」と隆景に対する賛辞を惜しんでいない。

 隆景が没するのは、秀吉が没する前年のことであった。類稀な智謀を有し、思慮分別が抜群だった隆景があと数年生きていたとしたら、その後の歴史はどう変わっただろうか。
 隆景の略歴

出自  毛利元就の三男
 毛利元就
兄弟  毛利隆元、吉川元春、穂田元清、富田元秋、出羽元倶、小早川秀包、末次元康、天野元政
 小早川正平の娘
 実子なし
 養子・・・秀包(毛利元就九男)、秀秋(木下家定次男・秀吉養子)
生没年  天文2(1533)年〜慶長2(1597)年
幼名・別名  徳寿丸、又四郎
官途名・叙任  中務大輔、左衛門佐、侍従、参議、権中納言、従三位 
法名  泰雲紹閑
墓所  米山寺(三原市)、京都大徳寺塔頭黄梅院


小早川隆景年表
天文2年 1533 安芸国吉田郡山城毛利元就三男として生まれる
天文6年 1537 兄・毛利隆元、大内義隆への人質として山口に送られる
天文9年 1540 尼子詮久(晴久)、三万の軍勢で安芸吉田に侵攻
天文10年 1541 小早川興景(竹原家)病死
天文13年 1544 竹原小早川家の養子となり家督を継ぐ
天文15年 1546 元就、隆元に家督を譲る
天文16年 1547 五ヶ竜王山城攻めで初陣を飾る(神辺城攻めという説も)
天文18年 1549 元就、元春(元就二男)とともに大内義隆に謁見
天文19年 1550 沼田小早川家(小早川・本家)を相続
天文20年 1551 高山城を本拠とする
天文21年 1552 新高山城を修築し本拠とする
天文23年 1554 陶晴賢の本拠・富田浦を攻める
弘治元年 1555 厳島の戦いで水軍を率い、毛利軍大勝に貢献する
(陶晴賢自刃)
永禄6年 1563 兄・毛利隆元急死
永禄8年
永禄9年
1565
1566
月山冨田城の戦い
永禄11年 1568 伊予大洲城攻略
元亀2年 1571 父・元就、安芸吉田郡山城で死去
天正10年 1582 秀吉と高松城攻めで講和
三原城を本拠とする
天正13年 1585 秀吉の四国攻めで一翼を担い、功により伊予35万石に封じられる(毛利家の分国として受領)
天正14年 1586 次兄・吉川元春、九州攻めの陣中で病死
天正15年 1587 九州攻めの功により筑前一国と筑後二郡、肥前二郡合わせて30万7千3百石を与えられ(異説あり)、居所を名島(福岡市東区)に定める
天正17年 1589 侍従に任官、羽柴の姓を許され、羽柴侍従と称される
文禄2年 1593 文禄の役の碧蹄館の戦いで明の大軍を京城の前面で撃破し、講和のきっかけを作る
秀秋(秀吉の甥)の宗家・毛利家への養子を阻むため(異説あり)、秀秋を小早川家の養子として受け入れる
この頃、豊臣家五大老の一人となる
文禄4年 1595 筑前・筑後の領国を秀秋に譲り、三原城を隠居城とする
慶長2年 1597 隆景、病死

 隆景の逸話

 EPISODE1
 ある時、黒田如水が隆景に質問した。
 「私は勘によって物事を判断するため、間違いを起こすことがある。私に比べ、小早川殿の判断には狂いはない。何か秘訣があるのでしょうか。」

 隆景はこれに答えて
 「おっしゃるほどのことではありません。私は黒田殿ほど鋭くありません。物事を考えに考え抜いたあげく結論を出すしかありません。黒田殿は頭が良いため、素早く決断なさる。そのために情報に誤りがあった場合に判断が狂われることがあるのでしょう。」



 EPISODE2
 隆景は、家臣に対して次のように諭したという。
 「私に意見されて、直ちに請合う者は、その意見を保つ者は稀である。私の意見を良く聞き、自分で考え、合点がいかないことは一問答も二問答もしてみて、もっともと合点をした者こそ意見を用いる者である。皆にもそうなって欲しい。」



 EPISODE3
 右筆に火急の用件を書かせる時に
 「急用である。静かに書け。」と諭したという。



 EPISODE4
 如水の子である長政も「分別」について隆景に教えを乞うた。
 「分別に肝要であるのは仁愛です。仁愛により分別すれば万が一、理に当たらないことがあっても、そう大きな誤りにはならない。逆に才智が巧みでも仁愛のない分別は正しいとは言えないでしょう。」と答えたという。



 EPISODE5
 隆景の人生観を語る言葉として次のような深い言葉が残されている。
 「一生は夢の間なれば」