武士の時代、それは、ことさらに家が大事にされた時代である。特に江戸時代に入り、安定した社会の中では、自分の代を大過なく過ごし、子孫に家名を引き継ぐということが大名から下級武士に至るまで武士全体にわたる最重要課題であった。
ここでは、江戸時代の武士の相続について考えてみたい。
武士の相続は、家名と家禄を継ぐことを意味しており、それは同時に、大名としての地位や幕府や藩の様々な公職に就くことでもある。父が現役ならば、子はよほどのことがない限り公職に就くことはなかったのである。
相続は必ず、主君の許可を必要とした。そのため「家督被下」、すなわち、家督を上から下さるという形式をとった。相続するのは、あらかじめ届けてある嫡子が原則である。他の子が相続するというのは、嫡子によほどの事故がない限りはありえなかった。なお、嫡子というのは正妻の長男のことで、その他の実子を末子といい、末子の間では本妻の子であろうと妾の子であろうと区別はなかった。
実際には、本妻に子が出来る前に妾に子が出来ても子として届けないでおくということも、ままあったようである。実際には兄であっても、公式には弟として扱われることとなるため、次第によっては御家騒動に発展することもあった。
二男以下は、養子先があれば恵まれている方で、それがなければ一生独身で長屋に住み内職で細々と暮らすしかなかった。ただ、例外的に二男以下に分知が許されることもあった。
ところで相続には以下の二種類ある。
「家督相続」・・・・・父が隠居して子が相続すること
「跡式相続」・・・・・父の死亡により子が相続すること
まず、家督相続であるが子の成長に合わせ、自分は隠居しなければならない。元服する年齢は15歳が普通であり、隠居年齢は50歳が適齢であったようである。武士は軍役を担うのが建前であるから、あまり高齢で現役というのは無理があることになる。
ただ、大名や大身旗本ともなると御家の事情というものがあるし、役職上も様々な制約があっただろうから、70歳で現役を張る者もいたし、8歳程度でも元服することもあった。
次に跡式相続であるが、相続を願い出るときは「跡目書上げ」といわれる願書を提出する。これには、被相続人の死亡日時、相続人の氏名・年齢、兄弟の名などを書く。このように相続人がいれば問題ないが、もし、死んだ時点で実子がいない場合は御家断絶となる。
このようなことがないように実子がいない場合は養子を迎えなければならない。養子は親族の中から選ぶのが原則で、それもいないとなると他人を迎えることになる。ただし、養子の場合、親族といえども御家人の養子は御家人の家から、旗本の養子は旗本の家から迎えなければならなかった。
しかしながら、幕末になると、この原則を破り、持参金目当てに町人を養子にする武士が多くいた。武士の窮乏が極まった結果である。
ところで実子も養子もいなければ、御家断絶となるのだが、実子が生まれる可能性があるならば、あえて養子を迎えたくないというのが人情である。かといって、いついかなる事故、病気で死を迎えるかわからない。
そこで「末期養子」という非常手段がある。危篤の段階で養子を願い出るのである。否、実際は死んでいるにもかかわらず、危篤ということにするのである。
また、参勤交代で国許に帰る際、仮の養子を密封して老中に届けておく「仮養子」という手段もある。死んだ場合のみ開封し、正式の書類として扱うが何もなければ翌年、参勤してきた時に封をしたまま返すのである。
相続者不在で御家断絶となった例は多く、大名だけでも、59家381万石に及び、取り潰し原因の中で最も多い。こうして見ると、大名が側室を多く持つのも伊達や酔狂でないことがわかる。
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