江戸城は、云わずと知れた「将軍家の居城」であり、現在は西の丸跡に皇居が、本丸・二の丸・三の丸跡は東御苑として一般公開されている。
江戸城のルーツは、遠く平安末期まで遡る。
桓武平氏「秩父党」の一人、江戸重継が江戸の地に初めて城を築いた。ただし、この頃の城がどこにあり、どの程度の規模であったかは不明である。
重継の子、重長は源頼朝に従い「武蔵国棟梁」と呼ばれ、江戸氏の隆盛の礎を築くが、鎌倉・南北朝時代を経て次第に勢力が衰え、江戸氏から北見氏に姓を変えながら細々と命脈を保つに過ぎなくなる。
はっきりと、現在の本丸跡に築かれた城と確認できるのは、長禄元(1457)年に太田道灌(資長)が完成させた江戸城である。
太田道灌は、扇谷上杉定正の重臣で、長尾景春の乱鎮圧のため30数度の合戦を戦い抜き、人気実力を兼ね備えた人物だったようである。しかし、道灌の声望を恐れた主君・定正により誘殺されるという運命をたどる。
大永4(1524)年、江戸城は北条氏綱に攻略され北条氏家臣の遠山氏が城代を勤めることとなる。
その後、天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏は滅び、江戸城は徳川家康の居城となった。
家康の居城とはいえ、実際に家康が江戸城に在城したのは49歳から75歳の26年間で4年余りであったといわれている。これは、豊臣政権下では家康もまた上方在住を余儀なくされていたからである。
そのためか、家康は天下人としての地位を手に入れるまでは江戸城の修復・拡大には消極的であった。
慶長8(1603)年、家康は征夷大将軍に任じられるに至り、ようやく慶長10(1605)年から本格的な江戸の町作りと江戸城の整備に積極的に乗り出すことになる。この際、諸大名に軍役の如く助役させる、いわゆる「天下普請」方式を取り入れ、4代家綱の代まで断続的に70年間に渡り大規模な建設作業が続き名実ともに「将軍家の居城」の体裁が整うことになるのである。
ところが、江戸城は度々、火災により焼失と再建を繰り返しており、明暦3(1657)年の明暦の大火により天守が、文久3(1863)年の大火により本丸が再建されず、明治維新を迎えた。
明治5〜6年、残存していた本丸・二の丸の櫓、多聞、門などが撤去され、大正12年の関東大震災や昭和20年の第2次世界大戦による戦災により更に多くの建造物が失われた。
その後、昭和35年に城跡が史跡に指定され、大手門の櫓門などが復元され現在に至っている。 |
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