武士の時代バナー 切腹の話
 

 今回は切腹について考えたいと思います。
 いわゆる「ハラキリ」ですが、その内容上、多少血なまぐさい記述となることをご容赦願いたい。
 また、切腹については美化される風潮がある反面、非常に残酷な私刑に過ぎないという考え方もあるが、ここではそういった議論には触れない。


   @ 切腹の意義
   A なぜハラキリか?
   B 自発的切腹
   C 刑罰的切腹
   D 殉死
 切腹の意義

 武士が切腹をもって自裁する理由は、「自分は、こんな激しい苦痛でも平気なんだ。この死に様を見よ。」という自己顕示が根底にある。
 武士は戦闘員だから、戦場で死ぬのは当たり前、日常から死ぬことに対する恐怖心など乗り越えている・・・というのが建前である。自裁しなければならない理由は様々だが、どうせ死ぬなら、華々しく散りたい、その方法論として切腹があるのである。
 なぜハラキリか?

 なぜ、腹を切るのか?
 新渡戸稲造氏は著書「武士道」の中で次のとおり説明している。
 「そもそも殊に身体のこの局部を選んでこれを切るのは、すなわちこれを以って霊魂及び愛情の宿る所となせる、いにしえの解剖学的信仰に基づくなり」
 即ち、昔は腹に人間の霊魂や感情が宿ると信じられていたから、ということである。
 自発的切腹

 どのような場合に切腹しなければならないか。
 個々に様々な理由があるだろうが、大きく分けて自発的なもの刑罰的なものに分類することができる。

 自発的なものの代表例としては、殉死や合戦に負けて死に華を咲かせる場合などがある。切腹することによって、家臣の助命を図ったり、自分が責めを一身に受け、主家や自家の家名を守ることが目的の場合もある。    
 秀吉に3万の兵で包囲された毛利方の三木城主・別所長治は、20月間耐えたが、徹底的な兵糧攻めの前に、ついに天正8(1580)年1月16日、別所一族の切腹と引き換えに城兵の命を救った
 慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原の戦いで大谷吉継は、病気のため不自由になった体を輿に乗せて奮戦したが、小早川他四隊が西軍を裏切ったため敗戦が決定的となった。吉継は見えなくなった目で敵方をにらみ「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と言い残し、腹を十文字に掻き切り果てたという。
 天保13(1842)年、小十人小普請・高屋彦四郎は「偐紫田舎源氏」の執筆により支配頭から喚問されていたが、切腹して果てた。罪は死罪に値はしないが家の断絶を怖れて切腹を選択したのである。これは、切腹により不起訴になることに決まっていたからだという。

 刑罰的切腹

 江戸期に入り、太平の世になると武士にとって殊更に武士道が尊ばれる風潮となり、切腹も武士の最後を飾るものとして儀式化し、江戸中期以降になると定型化するようになる。
 それらは、刑罰としての坐切腹に代表される。


切腹の通告 切腹の2〜3時間前
上使(大目付か目付)が「某、その方儀、〜せし段不届きにつき、切腹申付けるものなり。」と判決文を読み上げる。
切腹の時刻 夕方から夜間が通常
切腹の場所 原則 公儀預け人(大名・旗本など)屋敷及び寺院
罪人が大名・旗本の時は邸内、それ以外は庭が原則
身分が軽い場合、小伝馬町牢内で行われる場合もある。
邸内 毛氈、布団を敷き血止めをする。
切腹人の身分が高い場合は、特に白布で覆った畳二枚を敷く。
切腹の座は西又は北向きとし、検使の座が対面に設けられる。
周囲に白い幔幕を張った竹矢来を作り、南北に出入門を作る。
真中に白縁の畳二枚でT字型の切腹の座を作る。
座の傍らには白木の燭台二本が置かれた。
介錯人 選任 預かり人が家中から介錯人3名を選任する。
家中に適任者がいない場合、家の恥じであるため密かに他家から借りることもあったという。
役割 当日は麻上下に大小刀を帯びて勤める。
役目は、切腹人の首をはねる者1名、介添役として切腹刀を切腹人の前に運ぶなど細かい作業をする者が一名、もう一名は、切腹後、首を検使の実検に供する役であった。
検使役 切腹人が大名、旗本の場合は、大目付が正使で目付を副使となる。
それ以下は正使が目付で徒目付が副使となる。
検使役は終始、帯刀のままである。
切腹人 切腹の申し渡しを受けた後、沐浴し、髪を茶筌に結う。
服は白無垢(無官は浅葱無垢)、上下は
麻の無紋で水浅葱を着用。
切腹刀 九寸五分で柄をはずし、切っ先五寸程度を出して奉書紙で巻く、それを紙捻で結ぶ。
切腹の手順 先導者の案内で南門から入り、北面又は西面して切腹の座につく
   
下役が白盃、塩を入れた土器を乗せた折敷を左手に、水入りの銚子を右手に持ってそれを切腹人の前に置く。切腹人は末期の盃を二口に飲む
   
介錯人の一人が切腹刀を三方に乗せ、切腹人の前に置く。
   
介錯人は切腹人の背後に控え、切腹人に恐怖心の与えぬように鞘を払い、左斜め後に立ち、八双(あるいは中・下段)に構える
   
検使に目礼し、右肌、左肌の順で脱ぐ
   
腹を切る(詳細は次項)
   
介錯人は一気に首を切る
介錯人は蹲踞の姿勢を取り、懐紙で刀身の血のりを取り、鞘に収める。
   
首は別の介錯人が右手で髻を掴み取り上げ、死体の右側を回り、検使の前で左膝をつき、首の右側を見せ、ついで左手に持ち替えて左側を見せる
腹の切り方 切腹刀を左腹部に突き立て、右へ引き回し、一旦、刀を抜く。
次にみぞおちから心臓を貫き、仰向きの手を下に向け直し、下腹に向け押し下げる。
最後に刀を抜き、喉を突く。
首を切り落とす時期 時期が下ると、実際に腹十文字に切るということは無粋とされ、刀の代わりに扇子や木刀を使うことが多くなった。赤穂浪士の幾人かも扇子腹だったという。
これらのことから、切腹も斬首とあまり変わらなくなってくるのだが、首を切る時期は次の四段階であった。

@肌を脱ぎ終わった瞬間
A切腹刀(扇子等)を取るため三方を引き寄せ上体を折った瞬間
B切腹刀(扇子等)を取り上げた瞬間
C切っ先(扇子等)を腹に突き立てる瞬間
 殉死

 主君が死ぬと後を追って死ぬことを殉死といい、その歴史は古い。殉死が自発的なものか、否かは場合によって異なるが殉死の手段として切腹は一般的なものであった。
 殊更、太平の世が訪れると主君のために戦場で死ぬことはできない。自分の先祖達が代々、主君に命を捧げて忠節を尽くしてきたのだから、せめて主君の死の共をするのである。

 ところで殉死の切腹には次の三種があるとされる。

 義腹〜上記のような殉死本来の意義から切腹すること
 論腹〜同僚の切腹に置くれじと切腹すること
 商腹〜切腹をすることで子孫が得をすることを見越して切腹すること

 このようにみると、殉死は自発的なものであるはずであるが、体面上、切腹せざるをえない場合があっただろうと推察できる
 慶長12(1607)年3月5日、尾張藩主・松平忠吉が死ぬと家臣・石川吉信、稲垣忠政、中川清九郎が切腹して殉死した。これが江戸期初の殉死とされている。
 慶長12(1607)年4月8日、忠吉に続き越前藩主・松平秀康が死ぬと家臣・永見長次、土屋昌春が切腹して殉死した。殉死が続く事態に家康・秀忠は殉死禁止を出した。