武士の時代バナー 戦場の略奪は当たり前
 

 戦に動員された兵達にとっては、戦場は紛れもなく殺し合いの場であり、その心中は平和な現代に住んでいる私たちには想像することが難しいのかもしれない。

 あえて想像するに、ある者は戦場に行けば飯が食える、功をあげ出世をするなど積極的に戦に参加するものもいれば、有無も言えず動員されたものなど様々であったろう。
 しかし、いずれにしても
「明日は戦場の骸」という恐れは大なり小なりあったに違いない。

 そうしたことがあってか戦の合間には、
博打が大流行していた。最初は銭を5貫10貫とかけるのだが、負けだすと武具をかけだす者もいる。更にはかけるものがなくなり、民家や戦場で敵の死体から物を剥ぎ取るなどして、博打の元手を調達することが少なからずあったようである。

 もっとも、博打が略奪の主因であったわけではなかったが、
戦場の略奪は当たり前のようになされ、ひどい場合だと味方の死体からふんどしまで取ったと言うから凄まじい。もちろん、略奪するのは兵に限らずスッパ、土地の民衆も行ったのである。

 太閤記、天正5年10月30日の山中鹿之助の三保の関夜襲の記載に
「その土地の者共が戦を幸いとして略奪をやって、裕福になり、あとはゆっくり暮らした。」とあり、それについての是非のコメントもない。

 戦国大名にとっては、兵の士気を保つ意味では、ある程度は略奪に目をつぶったのだろうが、そうとばかりはいっていられない場合も多かった。
木曽義仲の例にみるように、乱暴狼藉が度を過ぎれば新たな領地の民衆の怒りを買い、領地を治める上で障害になるからである。

 そうしたことがあってか、
「濫妨狼藉」を禁止する軍令や制札など、かなり多くみられることから、それだけ略奪等の「濫妨狼藉」が日常茶飯事であったことを裏づけるのである。