大奥を知る
 
1 はじめに
2 大奥とは何か
3 男子禁制の虚実
4 奥女中の職制
 大奥は一生奉公か
6 実成院のこと(大奥幕末事情)

 余話:大奥と君が代NEW
徳川将軍家と大奥のブログ
 はじめに

 大奥が語られる時、女性同士の権力争いの場面が強調され、大奥とはいかなるものかという理解がされていないようである。
 確かに大奥の実態というのは当時においてさえ、一般に知られておらず現在に伝わっているところもほんの一部に過ぎない。

 それというのも大奥奉公に上がる際には、
内情を漏らさぬように誓詞血判していたし、職制が複雑多岐であるため、一人の女中が大奥全体を知ることは不可能に近かったのである。
 事実、明治維新後に旧女中から聞き取りした結果でも細部については統一性を欠いているという。

 以上のような制約はあるが、ここで私の知るところをまとめてみたいと思う。

* 奥女中誓詞
(一部抜粋)
  「一 奥方の儀、御事によらず、外様へ申すまじき事」

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 大奥とは何か

 江戸城は、
本丸・ニノ丸・三ノ丸・西丸から成なっており、本丸には、本丸御殿、天守閣があった。
 また、本丸御殿は、
表向・中奥・大奥に三区分することができ、更に大奥の内部は御殿・長局・広敷という3つの区域があった。
 もちろん、時代によってはニノ丸や西丸にも大奥があったが、ここでは本丸大奥について取り上げている。

 大奥は、将軍の御台所(正室)や側室や生母、彼女らに仕える女中の生活の場である。
 御殿には、将軍の大奥での寝所や御台所らの居室や奥女中の詰所があり、長局には、奥女中の住居がある。狭義に大奥という場合には、この御殿と長局のみをいう。
 広敷は、別棟となっており、大奥の事務を行う男性職員が詰めている。

 「大奥」という名称は、表向に対して一番奥ということであるが、これが固有名詞化されたものと考えられる。大名家等では、
「奥向」又は「奥御殿」などと呼称していた。
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 男子禁制の虚実

 大奥は、その性格上、男子の出入りに制限があるのは当然である。しかし、一般に牡猫一匹入れないといわれるが、それは誇張しすぎである。

 まず、大奥には
広敷といわれる一角があり、男性職員が多数詰めている。例えば、御台所の食事などは基本的には、この広敷の台所役人(男性)によって作られるのである。もちろん、この広敷と大奥御殿は自由に出入りができるわけではなく、御広敷御錠口によってのみしか出入りができず、厳重に管理されている。
 とはいえ、13代将軍家定の御台所に愛猫がおり、姿を消すたびに広敷役人が探しまくったという話もあるから、御用があれば割と出入りしていたのかもしれない。

 狭義の意味での大奥(御殿と長局)の男子の出入りについてであるが、享保年間の大奥法度によれば「九歳までの子・兄弟・甥・孫」の呼び寄せが可であり事情によっては1泊のみ認められた
 また、御殿内には老中などの表役人が御年寄と対談する「御広座敷」という部屋も用意されていたし、急病人が出た場合は当然ながら医師が入ることもあったという。

 大奥では旧暦の正月節分に、広敷の御留守居役が年男役を務め、女中に胴上げされたともいい、また、正月七日には、御鏡餅曳きといって餅を舟そりに乗せて御広敷の下男が変装して囃しながら曳き歩く行事もあったという。

 このように見ていくと、私たちが思っているより男子禁制は緩やかだったといえる。
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 奥女中の職制

 狭義の意味での大奥(御殿・長局)に生活する奥女中には、どのような職制があったのかだろうか。
 大きく分類すると
「お目見え以上」「お目見え以下」「部屋方」に分類される。お目見え以上は、将軍・御台所に謁見できる身分の女中であり、お目見え以下は、謁見できない身分である。ただし、お目見え以下であってもお目見え以上に出世することが可能であることは表役人と変わらない。

 部屋方というのは、お目見え以上の女中に私的に雇われる女中であって、正式な女官ではなく、従って、活動範囲は長局に限られていた

 以下でもう少し詳しく職制について見ていくこととするが、大奥の女中というのはすべて将軍付女中ではなく、御台所付女中や世子付女中、将軍生母付女中などがおり、基本的には職制は同じではあるが、将軍付きにはある職制が御台所付きにはないという場合や逆の場合などがある。

お目見以上
じょうろうおとしより
上臈御年寄
 奥女中の最高位で多くは、御台所の輿入れに随行してきた公家の娘。生家の通り名「飛鳥井」「○小路」などと呼ばれる。通常は、将軍や御台所に近侍するが実権を待たせないようにされていたという。
おとしより
御年寄
 奥女中第一の権力者で、老女・局(つぼね)などともいう。御用掛・月番などがあり、月番の時は毎朝四ツ時(午前10時)から夕七ツ時(午後4時)まで「千鳥之間」の煙草盆の前に座り、表使や右筆を呼び御用を申し付けた。
 大奥方の論理からすれば、表の老中にも匹敵すると認識されており、事実、諸大名に将軍の意を伝える上使にも立ったといわれている。ちなみに、外出の際の供揃えは、20人にも満たないものであったらしく、俗にいわれる「御年寄は十万石の格式」というのは、どこから来ているのかわからない。
 平素は中奥の御側御用取次と内談もしていたという。
 大奥を掌握している御年寄は、将軍にとっても煙たい存在であったらしく、大奥泊まりよりは中奥泊まりの方が安心できた?のかもしれない。
おきゃくあしらい
御客会釈
 将軍が大奥にお成りの時のおとりなし、ご家門等の女使の接待を行う役。御年寄等を引退したあとの隠居役であったらしく年老いた女中が役に就いていたと考えられる。また、この役は将軍付の女中のみの役職である。
ちゅうどしより
中年寄
 御年寄の指図で仕事をし、代理役も勤める。毎朝、献立表を取り寄せチェックし、配膳の指図、出来上がれば毒見もしたという。この役は、御台所付の女中のみの役職である。
おちゅうろう
御中
 将軍、御台所の身辺の一切の世話を行う。多くは器量の良い若い女中であったといわれる。通常、将軍の「お手つき」というのは将軍付きの御中揩ゥら出るが、御台所付女中から将軍の目に止まった場合は、御台所から将軍に献上という形をとったという。
 お手つきとなると
「内証の方」と呼ばれ、子が出来て、初めて独立した部屋がもらえる。子が女子であれば「御腹さま」、男子であれば「お部屋さま」と呼ばれた。
 御中揩謔濶コ位の女中が将軍に見初められた時は、御中揩ノ昇進した。
おこしょう
御小姓
 御台所や姫君の小間使いをする役で、14・5歳の少女が就く事が多かった。
おじょうぐち
御錠口
 大奥と外との接点は4箇所ある。
 一つは、中奥と大奥の間の「上の御鈴口」であり、将軍が大奥に出入りする錠口である。ここに詰めて、中奥の男役人と連絡しあいながら将軍の用を足すのが御錠口の役目である。
 ちなみに二つ目の接点は「下の御錠口」非常口として、普段は使用されていなかった。三つ目が御広敷とをつなぐ「御広敷御錠口」将軍以外の男子やお目見え以上の女中が出入りする時はここを通った。四つ目が「七つ口」で御広敷と長局の間にあり、お目見え以下や部屋方はここを通った。この出入り口は午後4時(七つ)に閉まったことからこの名が付いていた。
おもてづかい
表使
 大奥女中の中でも重要な役で才気溢れた者が就いた。重要な役というのは、一つには御年寄の指示のもとに大奥に必要な買い物を掌り、御広敷役人を通じ買い揃えること。二つには、表との諸事連絡をすることであった。一説には御年寄に次いで権勢があり、役得も大きかったといわれる。
ごゆうひつ
御右筆
 日記、諸記録、書状などの製作にあたる役である。その他、諸大名等からの献上物を検査し、御年寄に差し出すことも役目としていた。表の奥右筆と同様な仕事であったとも言われている。
おつぎ
御次
 仏間、台子、膳部、その他の道具を整えること。対面所などの掃除や行事等で遊芸をこなすのが役目であった。お目見え以下の者で遊芸の才がある者は、この役職に昇進する場合があったという。
おきってかき
御切手書
 七つ口を監視する役である。長局と御広敷の堺にある七つ口は、奥女中たちの買い物口があり、ご用達商人(女性)が来たり、奥女中の親族などの出入り口になっていた。入る者も出ていく者も許可書(御切手)が必要で、これを発行することからこの役職名がついた。
おとぎぼうず
御伽坊主
 将軍の刀を奉げ持って、将軍のお供をしたり、将軍の命により雑用を務めた。頭を剃り上げ、男物の羽織袴という一目でそれとわかる姿をしており、将軍の命とあれば、大奥のどの部屋にも出入りでき、中奥、表へも行けた唯一の役職である。また、将軍が奥泊まりの際の連絡役も勤めた。将軍付にしかない役職である。
ごふくのま
呉服の間
 服装の裁縫をつかさどる専門職である。専門職であるためか、この役からの昇進は少なかったという。針を無くした場合、見つかるまで幾日も探し、その間、仕事中は着物を変えることができなかったが、ご馳走にもありつけたという。
お目見以下
おさんのま
御三の間
 親許がお目見え以上の旗本の場合に始めに就く役職である。御三の間以上の居間の掃除、御年寄・中年寄・御客会釈・御中搴l所の雑用を務める。朝、「六ツ半時お目覚め、おめでとうございます」と御台所の目覚めを触れ回るのもこの役で超多忙であったという。
おひろざしき
御広座敷
 御広敷御錠口の近くにある御広座敷の世話をしたり、表使の下働き、諸大名の女使に対する膳部の世話をした。
おなかい
御仲居
 御膳所に詰めて献立の煮炊きを取り仕切る。御台所の献立は、御広敷で行われるが温め直しや一部の料理が調理される場合がある。
おひのばん
御火の番
 昼夜を問わず、大奥内の火の元を注意する役である。志願者は遊芸の稽古も許された。
おちゃのま
御茶の間
 御台所の食事中に湯茶を出す役であり、御台所付のみの役である。
おつかいばん
御使番
 御広敷御錠口の開閉を行い、御広敷役人との取次ぎ役を務める。
おすえ
御末
 いわゆる下女で風呂や台所の水汲み、掃除などの雑用一切を行う。
部屋方
つぼね
 部屋を取りしきる役で部屋方を束ねた。
あいのま
合の間
 部屋の中の相の間に詰めて、旦那の衣裳の世話や日常の相手をする。
こぞう
小僧
 小間使いの少女で成長すると合の間になる。
タモン  部屋の炊事、掃除などの下働きをする。
ゴサイ  ゴサイは奥女中ではなく、男の使用人で七つ口の詰所におり、奥女中の外の雑用を務める。ゴサイは御年寄なら3人、御中揩ヘ1人まで雇う事が出来た。
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 大奥は一生奉公か

 大奥に奉公に上がると、一生、外の世界に出ることができなかったのだろうか。結論から言えば大多数の奥女中にとっては、そのようなことはなかったといえる。
 ただし、将軍の寵愛を受けた者は終身、江戸城から出ることはなかった。将軍が亡くなると
桜田の御用屋敷に移り、位牌をいただき亡き将軍の冥福を祈る生活に入るのである。

 この時代は、女性が独自に身を立てる事は困難であったが、大奥奉公は立身出世を叶えてくれる場であった。仮に将軍の子を産み、その子が時期将軍に立てられることにでもなれば、自身の栄華は元より親族にまで、その恩恵が及ぶのである
 また、将軍の寵愛を受けることがなくても、自身の才覚で御年寄の地位まで極めれば、表への働きかけも可能なほどの権勢も手に入るのである。

 もちろん、このような大きな夢を持って大奥に奉公に出るものばかりではなく、多くは、行儀見習、平たく言えば花嫁修業の一環と考えていた者が多かっただろう。仮に部屋子として雑用に従事していても大奥に奉公したというだけで一種のステータスが得られた。

 さて、彼女たちは、日常、外に出ることが出来たのだろうか。
 まず、お目見え以下の奥女中の場合は、
宿下がりといって、規定の日数の間、御年寄の許可の元に外の世界に出ることが許されていた。日数は、奉公3年目に初めて許されて6日の暇を許された。6年目に12日間、9年目に16日間でそれ以上は増える事がなかったという。非常に厳しいようだが商家奉公の場合は盆と正月に1日の暇しか与えられない時代にあっては、それほど度を外れた厳しさでもないだろう。

 お目見え以上の女中については詳しくはわからないが、御年寄が寛永寺や増上寺に代参したり、大名家に使いに出る場合にお供をする機会があったと思われる。その際に非公式に芝居見物などに興じることがあったという。

 では、最後に将軍代変わりの際、奥女中は総入れ替えで召し放ちにならないのだろうか。
 やはり、代変わりになれば召し放ちの女中もある程度いたと思われるが、多くは大奥に残り主変えを伴いつつも残留したようである。幕末の大奥の実力者・滝山などは四代の将軍に仕えているし、大奥最高の役職である上臈御年寄でさえも二代、三代に仕える事が珍しくなかったのである。
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 実成院のこと(大奥幕末事情)

 幕末の大奥といえば、薩摩から13代家定に輿入れした
篤姫(天璋院)と14代家茂に嫁下された皇女・和宮が有名であり、小説・TV等で彼女たちを時代の犠牲者として扱っている作品も多い。そして、いつもそこに意地の悪い役回りとして登場するのが家茂生母・実成院である。

 この時期の大奥には、
本寿院(ほんじゅいん・家定生母)、天璋院(てんしょういん・家定御台所)、実成院(じつじょういん・家茂生母)、和宮(かずのみや・家茂御台所)という蒼々たる主が同居している。ちなみに、美賀子(みかこ・慶喜御台所)は一橋邸に留まり、大奥入りしていない。

 奥女中は、将軍付のほかに本寿院付とか、天璋院付とかそれぞれに職制があり本人達の仲の良し悪しとは、また別のところで派閥争いが起る。派閥争いの構図を単純化すると天璋院(篤姫)が島津から輿入れの頃は、大奥の実権は本寿院が握っていたので本寿院VS天璋院、和宮降嫁の頃は、天璋院&本寿院VS和宮ということになる。

 実成院は、家茂生母として紀州から大奥に入っていたものの第3の勢力に甘んじなければならなかった。実成院は、酒や遊興に耽っていたことは事実らしいが大奥における実成院は和宮に意地悪するほどの権勢はなかったように思われる。

 実成院は将軍生母として
「お上並み」(将軍の家族)の待遇を与えられていても、家茂将軍の正式の母は、あくまで天璋院であるし、和宮は形式的には大奥の主人であり、皇女としての存在感もあるわけであるから、実成院は大奥の中で居心地の悪さを感じていたのではないか。
 ちなみに家茂時代の奥女中は将軍付が132人、和宮付が71人、天璋院付が91人、本寿院付が56人、実成院が39人であり、実成院の立場の弱さが如実に出ている。

 実成院という人は、大奥に入る前も、苦労を重ねた人である。
 実成院は落飾前、
おみさの方といった。おみさの方は紀州徳川家11代斉順(なりゆき)の側室となったのだが11代将軍・家斉の15子から紀州家に入った斉順に対する風当たりは強く、実権は先代の治宝(はるとみ)が握ったままで斉順と実成院は鬱屈した生活を送っていたといわれている。 そんな中、実成院が菊千代(家茂)をみごもるが、生まれる数日前に斉順が病死してしまい、孤独のうちに菊千代を産み落とす事になる。

 そうした紆余曲折の末に将軍生母という輝かしい地位を得るがそこには先代御台所、生母が大奥の主として君臨していた。更に御台所に皇女を迎え、彼女は何とも言えない疎外感に悩まされたのではないだろうか。これらの感情が多少のウサ晴らしに走らせたのだろうが、天璋院と和宮というヒロインの前で姑の嫁いびり役を負わされたという図式が浮かぶのだが、どうであろうか。
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 余話:大奥と君が代
 
 「君が代」が国歌となったいきさつについては、大奥との意外な関係があるのでご紹介します。政治的な話ではないので薀蓄(うんちく)話程度に読んでください。

 
明治2年に明治政府が英国から貴賓を迎えることになった時の話。
 明治政府に雇われていた軍楽隊教師・
フェントンが接待役の原田宗助(薩摩藩士)に尋ねた。

「貴賓を迎える場合に両国の国歌を演奏する必要があるが日本の国歌とはいかなるものか?」

 もちろん、日本には国歌の定めもなかったため原田は答えようもなく、国家の一大事と判断し、急ぎ軍務官幹部である薩摩の
川村純義(のちの海軍卿)に伺いをたてにいった。

 折り悪く会議中であった川村は会議から抜け出て怒気を含みながら次のように答えたという。

「おはん方を接伴掛としたのは、今度来朝あらせらるる英国貴賓饗応において万事不都合なかんごつ取計らってもらうためじゃ。それを何ぞや、歌ぐらいの事で一々問合せに来る必要があるか。何ごつによらず掛員が相談の上、饗応については総て手落ち無くよかように取計ろうてよか」

 くだらんことを一々聞くなと言わんばかりの態度に青ざめた原田は、立ち帰り同役である
乙骨太郎乙(おつこつたろういつ)と相談した。
 乙骨は旧幕臣でふと大奥で行われていた
「おさざれ石」の儀式を思い出し歌詞を口ずさんでみた。それこそが現代の「君が代」の歌詞である。

 それを聞いた原田は驚いた。それは
薩摩の琵琶歌にもある歌詞だったからである。早速、原田はフェントンの前で節を付けて唄ってみせ、それを国歌として演奏することにした。

 もっとも、初期の「君が代」は即興のせいか評判が悪かったため、明治13年に海軍雇いドイツ教師エッケルトによって雅楽の音律を取り入れるなど曲が整えられて現在の「君が代」となったのである。


 「君が代」の発案の素となった大奥の「おさざれ石」の儀式とは次のようなものである。

 「おさざれ石」は
御台所が将軍家に年賀の挨拶をする前に行われるお清めの儀式で正月三ヶ日の間行われた。

 御台所は毎朝七つ時(午前4時)に起床して、お化粧・着替えを済ませた後、廊下の中央に置かれた石の3個入ったタライをはさんで御台所と大奥中老が向い合って着座。中老が「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を唱え、御台所が直ちに「いわほとなりて苔のむすまで」とつなぐと中老が上から水を注いで御台所の手を清め、小姓が手拭を捧げることで儀式が終了する。

 この話は原田の後輩である海軍中将・澤鑑之丞「海軍七十年史談」という本に記されており、現在もこの本は古書店などで入手可能である。

 なお、「君が代」の歌詞が大奥の儀式や薩摩の琵琶歌に使用されていたという一種奇妙な符合は、この歌詞が古くは
古今和歌集(905)年や和漢朗詠集(1013頃)年に読み人知らずとして記されており、室町時代の謡曲「老松」にも取り入れられ、更に江戸時代になると神楽歌、里謡、琴歌、地唄、長唄、琵琶歌、臼引き歌、船歌などにも祝歌として広く浸透していたことによる。

 ともかくも、この話が面白いのは、川村の回答に薩摩人らしいユーモアを感じさせてくれることであり、国歌制定が大奥という一見無関係に思われるものとの関係で制定されたという偶然であり、その偶然が実は1000年の時を越えてもたらされているということである。
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