豊臣家最大の忠臣 石田三成
 
佐和山城跡  1 三成の人物像
 2 三成の略歴
 3 三成の体格
三成画像
写真は三成の居城佐和山城跡
 三成の人物像

 
石田三成は、侫臣、傲慢、小賢いという人物像が一般的であるが、これは、家康(勝者)サイドからの見方である。
 しかし、近年は、司馬遼太郎氏、小和田哲男氏、堺屋太一氏等の影響からか評価が変わりつつある。

 もちろん、歴史上の人物を善玉悪玉というレッテルをつけて見ることは誤りであり、実は石田三成が善玉であったということを説明したいわけではない。

 少なくとも、「関ヶ原で敗れたことから、後世(特に徳川時代)の人間が三成を家康に比し、いかに小人物、悪者であったかを強調せんがため、千利休切腹、豊臣秀次抹殺等の豊臣政権下の暗い部分の責任を三成一人にお仕着せ、そのようなことだから人望がなかったのだ。」というのは誤っていると私は思う。

 千利休切腹にしても豊臣秀次抹殺にしても、全ては秀吉の意思であり、三成は、その手足に過ぎないのである。

 あるいは、「関ヶ原は家康の周到な仕掛けにはまり、負けるべくして負けたのだ。」というのも、明らかに誤りである。
 関ヶ原では、一日で戦闘が終わったため、東軍の楽勝だったというイメージがあるが、家康にしても上杉征伐から関ヶ原に至るまで、また、関ヶ原で戦闘が始まってからも薄氷を踏む思いであったに違いなく、結果、東軍が勝利を収めたが、ひとつ歯車が違っていたら西軍が勝つこともありえただろう。

 また、結果を知っている私たちが、三成の対して島津豊久の夜襲策を斥けたことにより勝機を逃した等々の批判は余りに僭越ではないだろうか。
 第一、夜襲の献策自体が事実かどうか非常に疑わしいのである。仮に事実であったにせよ当事者たる三成には、それなりの事情があったに違いなく、もし、東軍が敗れていれば私たちは同じように家康の敗戦理由をあれこれと並べ立てたに違いないのである。

 ともかく、三成が、わずか19万4千石で毛利や島津を動かし、天下を二分し、家康と五分に渡り合ったのである。その力量は凄まじいと言わざるを得ないのではないか。

 豊臣秀長が秀吉に対し、「軍中功を求め、限りなく高禄を欲する者共がそれほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ。」と諫言したとされるが、三成は高禄を望まず、秀吉生存中も没後もひたすら秀吉の恩顧に答えようと、自己の能力をフル回転して戦国の世を駆け抜けたのである。

 三成の略歴

永禄3年(1560) 近江国坂田郡石田村(現長浜市石田町)で佐吾右衛門(後の石田正継)の二男として生まれる。
天正2年(1574) 近江で秀吉に見出され家臣となる。
天正5年(1577) 秀吉の中国攻めに従軍(天正10年まで)
天正11年(1583) 水口4万石城主となる。島左近を1万5千石で召抱える。
賤ケ岳の戦いの兵站で非凡の才能を発揮する。
天正12年(1584) 太閤検地の奉行を務める。
天正13年(1585) 従五位下治部少輔に任じられる。
天正15年(1587) 朝鮮攻めの兵站基地として博多の町割り奉行を務める。
天正18年(1590) 近江佐和山19万4千石の城主となる。
武蔵忍城攻めの総大将として出陣するが、失敗する。
文禄元年(1592) 朝鮮征伐軍の総奉行として渡海。
慶長3年(1598) 秀吉死去。
慶長4年(1599) 徳川家康を問責。
前田利家死去。
加藤清正ら七将に襲撃される。
奉行を辞職し、佐和山に謹慎する。
慶長5年(1600) 家康討伐のため出陣。(関ヶ原の戦い)
七条河原で斬首される。(没年41歳)
 三成の体格

 明治40年、
京都大徳寺三玄院の三成の墓から骨が発掘された。
 発掘資料から後年、復顔や体格の分析がおこなわれた。それによると「
女性のような骨格、頭形は長頭、鼻は高く鼻筋が通っており、かなりの反っ歯、身長156cm前後」と報告されている。
 加藤清正が三成を「背の小さきはんさん者(おべっか使い)」と言ったというが、当時としては特別背が小さい方ではない、ということになる。ちなみに、家康の身長は155〜158cmと推定されている。