歴史の大立役者 明智光秀
 
坂本城 1 光秀の人物像
2 光秀の略歴
3 光秀を本能寺に駆り立てたもの
光秀画像

写真は、光秀ゆかりの坂本城の城門

 光秀の人物像

 明智光秀といえば「主殺し」、「三日天下」など、ありがたくない代名詞がつくのが一般的である。しかしながら、
歴史を大きく転回させたキーマンであることは疑うべくもない。
 同時に光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはない。

 また、戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてだろうか。私の感覚ではあるが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物であるのに対し、光秀については、その栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリとしてとらえることができるのである。

 それは、早乙女貢氏が指摘するように光秀が「勤勉で、学問好きで、まじめに生きようとしている。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もあるが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。」(明智光秀 物語と史蹟をたずねて 早乙女貢著より抜粋)という現代人的感覚に近い人間だからだと思われる。

 逆に言えば戦国期においては、生きていけない人間ということになってしまうのかもしれないが、
明智一族の結束の強さに光秀の人間臭さを感じるのである。

 光秀の才能や人間性が、どのようにして培われたものか大変興味があるのだが、残念ながら光秀が歴史の表舞台に登場してくるのは朝倉義景に仕官した時からで
その前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく、謎に包まれている。

 光秀の略歴

出自  清和源氏で土岐下野守頼兼の末裔
 明智光綱(光綱の弟、兵庫助光安が美濃明智城城主)
 斉藤道三の妻 小見の方は光綱の妹でその子が織田信長の妻 濃姫
兄弟  信教、康秀の2人の弟がいる
 妻木勘解由左衛門範熙の女
 男子・・・十五郎、子(名不明)
 女子・・・明智秀満の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻
生没年  享禄元(1528)年〜天正10(1582)年
明智姓  美濃国明智荘(岐阜県可児市)に由来
墓所  西教寺、高野山奥ノ院

* 出自、家族関係、生年、明智姓の由来には諸説あり


永禄末〜元亀元年 足利義昭の家臣という身分のまま、信長にも仕える
元亀2年 1571 近江志賀郡の地を与えられ坂本城を居城とする
天正3年 1575 丹波攻略の命が下る
越前一向一揆討伐、竹田城攻め、黒井城包囲
天正4年 1576 八上城主、波多野秀治の裏切りにより丹波から一時撤兵
石山本願寺攻め
天正5年 1577 雑賀攻め、松永久秀攻め、亀山城・籾井城攻め
天正6年 1578 八上城攻め、本願寺攻め、園部城攻め
神吉城攻め、荒木村重攻め、三田城攻め
天正7年 1579 氷上城攻め、八上城攻め、丹後攻め、黒井城攻め 
天正8年 1580 信長より「粉骨のたびたびの功名、比類なき」の感状とともに
丹波一国を与えられ亀山城主となる
天正10年 1582 5月17日 家康饗応役を免じられ、中国地方出陣を命じられる
5月26日 坂本城から亀山城に入る
5月27日 愛宕山参詣、籤を2、3度引く
5月28日 愛宕威徳院で百韻連歌に参加
6月 1日 一万三千の兵を率い亀山城を出発
6月 2日 未明、
本能寺を奇襲し信長を討つ
      二条御所で信忠を討つ
      近江に向け進軍するも山岡景隆が抵抗し瀬田唐橋を落とした
      ため、坂本城に引き返す
6月 3日 瀬田唐橋修復を待つ
6月 4日 3日に同じ
6月 5日 安土城入城、佐和山城・長浜城を攻め両城占拠
6月 7日 勅使 吉田兼和と安土城で会見し、誠仁親王からの進物受領
6月 8日 坂本城帰城
6月 9日 京に入り、支配体制を整える
      細川父子に書状送るも黙殺される
      下鳥羽に出陣、南殿寺に本陣を置く
      筒井順慶を洞ケ峠で待つが順慶、現れず
6月10日 筒井順慶に再度、出陣要請するも実らず
      夜、秀吉の動向を知る
6月11日 再び下鳥羽に本陣を構え、淀城・勝龍寺城の防備を固める
6月12日 山崎で秀吉軍と交戦
6月13日 光秀軍一万六千、秀吉軍三万七千が戦闘
      光秀敗れ勝龍寺に撤退
      深夜に近江方面に逃走する
      伏見の小栗栖で落ち武者狩りに遭い絶命
               

 光秀を本能寺に駆り立てたもの

 なぜ、光秀は信長を討ったのか?

 戦国史上最大の謎といわれ、諸説あるが後世の私たちが光秀の内心を正確に、のぞき見ることは、ほとんど不可能に近いことだろう。
 ただ言える事は、光秀と信長は互いに肌が合わない人間性を持っていたこと、動機についても一つではなく、いろんな要因が積もり積もって光秀をして信長を討たせたのだろうということ。

 最も私が主張したい点は、ある説に対し、それに反する資料があるならともかく、信用のおける資料がないからという理由で排除するのは納得できないという点である。

 以下に光秀を本能寺に向かわせた動機についての代表的な説を簡単に説明する。ただし、私なりの解釈が介在していることをお断りしておきます。


@ 野望説
 光秀とて、信長ら他の戦国武将となんら異なることはなく、
チャンスがあれば天下を手中にしたいと考えていた。至極当然のことである。
 しかも、光秀は年齢を重ねても青雲の志を忘れないタイプの人間に思える。その志と信長の間で常日頃から葛藤していた。そこに千載一遇のチャンスが訪れたのである。
 説得力は十分あるが、直接の動機としては弱い感じがする。
A 怨恨説
 信長が光秀の立場を考慮しない言動がたびたびあったため、溜まりに溜まった
恨みが動機となったとする説である。
 例えば甲州攻めの際の折檻、八上城攻めの際に人質となった光秀の母を見殺しにされたこと、家康饗応役に対する叱責などが具体的原因として数えられる。
 通説に近い説ではあるが、光秀のスケールを小さく見せる作為を多少感じる。
B 自己防衛説
 信長は晩年になればなるほど、冷酷、残忍、ヒステリックな性格が顕著になっており、それが敵はおろか、家臣にも向けられる。織田家股肱の臣である林佐渡守や佐久間信盛のように、いつ、難癖をつけられ追放されるかわからない。そんな
不安定な地位に甘んじるくらいなら大きな賭けに出るほうが良いと光秀が考えたとする説である。
 有力な説ではある。
C 武士の面目説
 長宗我部氏との折衝役を行っていた光秀は、当然、自分が四国攻めの総大将に指名されると思っていたが、信長は長宗我部氏との約束事を反故にしたあげく、所領の丹波と近江を没収し、かわりに、いまだ毛利領である出雲と石見を与えるという。更にライバルである秀吉の指揮下で中国攻めに参加せよという。
 今までの自分の苦労が無になる思いと何にもまして自分を支えてきてくれた
一族や家臣に面目が立たない。面目を守るためには何を為すべきか・・・。
 時期的にもタイムリーであり直接の動機としては十分説得力がある説である。