武士と言えば刀、刀と言えば武士の魂という感があるがこのような観念は江戸時代に形成されたものではないだろうか。戦国期にはむしろ、弓や槍が武士を象徴するものであった。
刀も主要な武器として使われたが切るというより、むしろ叩くものであったようである。兜を叩けば当然、刃こぼれするから、合戦時には数振のスペアが必要であったという。
また、左腰には短刀を差していて、相手を組み敷いて鎧兜の隙間を狙い止めをさすために使ったといわれている。
刀は偏刃(かたは)つまり、片方に刃がついているものであり、両刃のものを剣(つるぎ)という。また、平安時代末期から室町時代初期までの腰に吊るして使ったものを太刀といい、現在美術館などで刃を下にして飾ってあるものがこれである。
日本刀は平安時代末期より精巧鋭利ということから海外での評判が高く、貿易に用いられることが多かった。また、特に鎌倉時代には名工が多く輩出し、ますます完成度が高くなっていき、次第に贈答品や戦功の褒章としても使われるようになる。
なお、刀剣史上では慶長(1596〜1614)以前のものを古刀、それ以後のものを新刀といっている。
日本刀の美しい形、鍛えられた地鉄、神秘性を帯びた刃文は日本が世界に誇る鉄の芸術品といっていいだろう。
次に名刀として記録に残るものとして次のような刀がある。(カッコ内は持ち主)
宗三左文字(武田信虎、今川義元、織田信長)
へしきり長谷部(織田信長、豊臣秀吉、黒田長政)
貞宗(石田三成)
影秀(伊達政宗)
義元左文字(今川義元、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康)
逆に妖刀として名高いのは「村正」である。
徳川家康の祖父清康、父広忠は家臣に斬殺されているが、その刀が村正であり、長男信康の切腹した時に介錯した刀が村正であった。更に家康自身も関ヶ原の戦いで誤って村正の槍で指にケガをしている。
このため、徳川時代には大名から陪臣に至るまで村正を避けるようになったと言う。
ただし、毛利や島津を除くのは言うまでもない。
明治維新になり、廃刀令が発布されて、刀の歴史は一時途絶えたが1906年、月山貞一、宮本包則両氏が帝室技芸員に任命されて、現在に至るまで鍛刀の技術が受け継がれている。
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