武士の時代バナー 武士の遺恨
 

 江戸城中での大名、旗本の刃傷事件は記録に残るもので7件あります。
 真相が判然としない事件が多いですが、ほとんどが
武士の面目にかかわる遺恨がらみの事件といえます。
1 豊島明重事件
2 稲葉正休事件
3 浅野長矩事件
4 水野忠恒事件
5 板倉勝該事件
6 佐野政言事件
7 松平外記事件

 豊島明重事件
 寛永5(1628)年8月10日 <将軍家光>
場所  西の丸
加害者  豊島刑部少輔明重(目付)
被害者  井上主計頭正就(老中 横須賀城主60000石)
事件概要  午後2時頃、明重が「武士に二言はないぞ」と叫びながら脇差により正就を討ち果たした。
 明重はその場で自害したが、この時、明重を組み止めようとした青木小左衛門忠精も巻き添えにより死亡した。
事件原因  老中 井上主計頭正就の長子と大坂町奉行兼堺政所奉行 島田越前守直時の娘の間を明重が取り持ち、婚約が整っていた。
 しかし、春日局「上意」と称して正就に他の縁談を申し渡したため正就もこれを承諾してしまい、婚約が破談となった。
 面目を失った明重は怒り、刃傷に至ったのである。
裁き  豊島家〜嫡子主膳正継重切腹、豊島家断絶
 井上家〜お咎めなし
*豊島家一族全員の処罰となるところを嫡子の切腹のみで済んだのは、酒井忠勝「遺恨をそのままにしないのも武士道の一つで、これを厳罰とすれば、武士の意地が廃れて百姓町人と同じことになる。」と意見したからだという。
その他  責任を感じた島田越前守直時も切腹
 稲葉正休事件
 貞享元(1684)年8月28日 <将軍綱吉>
場所  本丸の琴棋書画のお入側
加害者  稲葉石見守正休(若年寄 下館城主12000石)
 * 正俊の又従兄弟
被害者  堀田筑前守正俊(大老 山形城主110000石)
事件概要  正休は大老・老中用部屋で正俊に挨拶した後、用があるといって次室に正俊を呼び出し「天下のため、覚悟」と叫びながら、脇差により討ち果たした。
 この時、老中 大久保忠朝が駆けつけ、正休に切りかかったが正休は微笑んで、無抵抗であったが集まってきた者達にめった切りされ、即死した。
事件原因  正休が淀川改修工事の見積りを4万両としたことに対し、正俊はこれを過剰として別の者に半額の見積りを立てさせ、これを採用しようとしたため正休は面目を失い遺恨を持った。
 異説として、将軍綱吉が意のままにならない正俊を殺させたとする説、前日に正休は堀田家に招かれて酒食を共にしているが、この際にトラブルがあったとする説などがある。
裁き  稲葉家〜断絶
 堀田家〜お咎めなし
その他  側用人 牧野成貞が綱吉に刃傷の報告をしようと、慌てて脇差を帯びたまま御座所に入ろうとした時、小姓 柳沢弥太郎(後に吉保)に非礼を指摘された。
 この時から、綱吉の柳沢に対する寵愛が始まったという。
 浅野長矩事件
 元禄14(1701)年3月14日 <将軍綱吉>
場所  本丸松の大廊下
加害者  浅野内匠頭長矩(勅使院使御馳走役 赤穂城主53000石)
被害者  吉良上野介義央(高家肝煎)
事件概要  朝廷からの年賀返礼行事の最終日、午前11時頃、長矩は「この間の遺恨覚えたか」と言いながら義央に対し、脇差で正面から一太刀浴びせたが討ち果たせず、逃げる義央を追ったが異変に気づいた梶川与惣兵衛に背後から抱きとめられてしまい討ち果たすことができなかった。
事件原因  長矩が原因に触れず「遺恨やむを得ざる事」とのみ言葉を残し、切腹したため原因は謎のままであるが説としては以下のとおり。
 @長矩乱心説
 長矩には普段からヒステリックなところがあり、侍医の投薬を受けていたが発作的に行動を起こしたとする説
 A賄賂遺恨説
 御馳走役の指南を受けるための賄賂が少額であったため、義央が長矩に対し、事あるごとにつらくあたり、長矩が遺恨を持ったとする説
 B製塩法伝授拒絶説
 義央が長矩に評判の高い赤穂塩の製法伝授を求めたが拒絶されたため、義央が長矩につらくあたり、長矩が遺恨を持ったとする説
 赤穂と吉良の塩の商圏を巡った争いがあったとする説もある。
裁き  浅野家〜浅野家断絶
 吉良家〜お咎めなし
 水野忠恒事件
 享保10(1725)年7月28日 <将軍吉宗>
場所  本丸松の間の廊下
加害者  水野隼人正忠恒(松本城主70000石)
被害者  毛利主水正師就(長門長府藩主50000石)
事件概要  白書院で式日御礼を終えた後、忠恒が脇差により突然、師就に切りつけた。師就は鞘つきのまま脇差により防ごうとしたが、受けきれず重傷を負った。
 忠恒は近くにいた戸田右近将監らに取り押さえられて、即日、秋元伊賀守屋敷に御預けと決まった。
事件原因  大目付の審問に対し、忠恒は次のように答えた。
 「常々自分は不行跡で、家来からの評判もよろしくないため、今日は自分の領地が召し上げられ毛利主水正に下されると思い斬りつけた。」
 真相は闇の中であるが、忠恒の乱心とするのが大方の見方である。
裁き  水野家〜改易、家名存続
 毛利家〜お咎めなし
 板倉勝該事件
 延享4(1747)年8月15日 <将軍家重>
場所  本丸大広間
加害者  板倉修理勝該(旗本 7000石) 
被害者  細川越中守宗孝(熊本藩主 540000石)
事件概要  午前8時頃、大広間の縁側に血だるまの者が倒れており、顔もわからなかったため名を聞くと「細川越中」と言い、加害者は「裃を来た者」とやっと答え、即日死亡した。
 調べると便所廊下に抜身の脇差が捨ててあり、更に便所の奥に隠れている者があり、名は板倉修理と答え「誰かわからないが、相手が脇差を抜いたので斬った。後のことは覚えていないが、人を傷つけてしまったため、こうして髻を切って隠れていた」と言ったという。
事件原因  勝該の宗家である板倉佐渡守勝清が自分の子を勝該に替えようとしていると聞き、勝清を討とうと思っていたが細川の家紋が宗家の替え紋に似ていたため誤って斬ったという。
 また、勝該の屋敷が細川家の崖下にあって雨が降ると、水がどっと板倉屋敷流れ込んでいたため、常々苦情を申し入れていたが一向に相手にしてもらえず怒りを爆発させたとする説もある。
裁き  板倉家〜断絶
 細川家〜お咎めなし
その他  勝該は切腹に臨んだとき呆然として自分で刀をとろうともしなかったため、打ち首同然に介錯されたという。
 佐野政言事件
 天明4(1784)年3月24日 <将軍家治>
場所  本丸中の間
加害者  佐野善左衛門政言(旗本 新番組番衆 500石) 
被害者  田沼山城守意知(意次の嫡子 若年寄 役料5000俵)
事件概要  午後2時頃、意知が同僚と連れ立って御用部屋から退出する途中、当直日で詰めていた政言が「申し上げます、申し上げます」といいながら小走りに意知に近づき、「覚えがあろう」と隠していた小刀で背後を襲った。
 意知は重傷を負いながらも逃げ回り、なんとか致命傷だけは受けずにすんだが、意知の治療に当たった医師も驚愕のあまり、震えるのみで応急処置をするのがやっとで処置が不十分であったため、意知は3日後に死亡した。
事件原因  意知は、父の意次(老中)とともに田沼全盛時代を築いており、その権勢に将軍でさえも遠慮するほどであったというが、田沼家の祖は佐野家の家来であった。
 田沼が、佐野家の系図を借りたまま返さなかったこと、佐野庄の佐野大明神を田沼神社にしたこと、将軍の鷹狩の際の手柄を横取りにされたこと、佐野家の七曜紋の旗を借りて返さなかったことなどが原因とされているが、全て真実であったかはわからない。
 いずれにしても、何らかの形で権勢にものをいわせ、政言に横車を押したのだろうと推測される。
裁き  佐野家〜断絶
 田沼家〜お咎めなし
その他  この事件を境に意次の権勢にも陰りが見え、2年後に老中を罷免された。
 政言は切腹後、浅草本願寺の徳本寺に葬られたが、田沼の政治に不満を持っていた庶民は「世直し大明神」と称え、墓参の人が絶えなかったという。
 松平外記事件
 文政6(1823)年4月22日 <将軍家斉>
場所  西の丸御書院番休息の間
加害者  松平外記(旗本 西丸御書院番番衆) 
被害者  本田伊織(旗本 西丸御書院番番衆以下同じ))
 沼間右京
 戸田彦之進
 間部源十郎
 神尾五郎三郎
事件概要  病気と称して欠勤していた外記が久しぶりに出勤すると、同僚が外記について、あらぬことをささやき合う。
 聞こえぬ振りをして詰めていたが、交替の時間が来て休息の部屋に入ってもなお、同僚の雑言が絶えず、ついに堪忍袋の緒が切れ、小刀により同僚達に向かい手当たり次第に斬りつけた。午後4時頃のことであったという。
 外記は散々暴れた後、自分で腹を切り更に咽喉を突き自害した
 この時、番頭酒井山城守がなぜか姿を見せなかったため、事件の報告が遅れてしまい、それが済まないから医師を呼ぶこともできず17時間後に医師が来た時は、本田・沼間・戸田は出血多量で死んでいた。
事件原因  将軍世子家慶の追鳥狩に陪従する拍子木役を外記が所属する御書院番三番組48人が争い、席順20番の外記が西丸御納戸役を務める父の力を借りて手中にした。
 これが同僚達の反発を買い、事あるごとに外記に対して辛く当たるようになった。外記は、これに耐え切れず、病と称して拍子木役を返上して自邸に引きこもってしまった。
 しばらくぶりに登城したその日に事件を起こしてしまったのである。
裁き  松平家〜断絶
 被害者〜不明