家 康 物 語

人質岡崎領主から三河統一へ
家康
 天文11(1542)年12月26日三河岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれる。母は刈谷城主・水野忠政の娘、お大。幼名は竹千代、元服後、元信元康と称する。 6歳から19歳までの14年間、織田信秀今川義元の下で人質生活を送る。

 永禄3(1560)年、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれ、今川氏が混乱したのを機に岡崎城に戻り、、織田信長と同盟を結び三河統一に着手する。

 永禄6(1563)年から始まった三河一向一揆で家臣の多くが一揆側に付くなど厳しい試練となったが、激しい攻防の末、翌年これを鎮圧。一揆に参加した家臣の本領を安堵するなど巧妙な戦後処理により、家臣団の結束をより強固なものにすることに成功した。

 永禄7(1564)年三河統一に成功。永禄9(1566)年、従五位下三河守に叙任し、姓を松平から徳川に改める

信長の弟から海道一の弓取りへ

 永禄11(1568)年武田信玄と結び、今川領である駿河・遠江両国を大井川を境に西が徳川、東が武田というように分割する約束をした。分割領を平定した家康は、元亀元(1570)年居城を岡崎城から浜松城に移し、信玄との戦いに備えることとなった。

 同年、家康は初めて大規模な戦を経験することになる。織田・徳川軍が朝倉・浅井軍を破った姉川の戦いである。
 そしてついに、元亀3(1572)年には西上途中の信玄と三方原の戦いで直接激突するが、戦国最強を謳われた武田軍の前に惨敗し、何とか討ち死にだけは免れた。

 家康を恐怖に陥れた信玄であったが、翌年に病死。天正3(1575)年には、逆に徳川・織田軍は武田勝頼率いる武田軍に長篠の戦いで大打撃を与え、天正9(1581)年に武田方の遠江高天神城を落城させるに及び武田氏の命運も尽き、翌年、勝頼の自刃により武田氏は滅亡した。武田の旧領のうち駿河を家康が、甲斐を信長が領することになった。

 武田氏が滅亡した2ヵ月後の天正10(1582)年、長い間、盟友関係にあった信長も天下統一を果せぬまま本能寺で明智光秀に討たれるが、家康はこの危機を逆に好機に変え、甲斐・信濃に出兵して、これを平定。三河・遠江・駿河・甲斐の四国と信濃のほぼ半国を領する大大名となる。

秀吉との対決そして臣従

 信長の後継争いで羽柴秀吉に遅れをとった家康は、天正12(1584)年、信長の二男・信雄を擁して秀吉と衝突、世に言う小牧・長久手の戦いを起こすが、実際に戦らしい戦はなく、むしろ外交戦の様相が強いものであった。この戦いでは局地的に家康有利であったが秀吉が外交手腕を発揮し、信雄と和睦をしたため大義名分を失った家康は兵を引き、二男於義丸(秀康)を秀吉の養子に出して和睦した。

 秀吉との緊張関係が続く中、天正13(1585)年、家康家臣団の中で酒井忠次と共に軍事・民政両面を掌握していた石川数正が秀吉の下に出奔する。このことは徳川の軍事機密が秀吉に筒抜けになることを意味し、家康にしてみれば大変な危機であった。このことにより家康は武田の軍制を取り入れた大改革を余儀なくされた。「国政は三河の先規、軍法は武田の兵制」といわれる所以である。

 家康・秀吉双方がそれぞれの事情から直接対決を望まず、天正14(1586)年10月、ついに家康が秀吉のもとに赴き、臣従の礼を取ることとなった。また、この年、居城を浜松城から駿府城に移している。

江戸打入りから天下の律義者へ

 天正18(1590)年、秀吉の後北条氏討伐に家康は3万の兵を率いて先鋒をつとめ、戦後、秀吉から旧領五カ国から後北条氏旧領の武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野の関東六カ国240万石への移封を命じられ、居城を駿河城から江戸城に移すことになった。

 関東の地が北条氏五代に渡る領国で敵地同然であったことを考えると、この移封は秀吉が打った家康の力を削ぐための策であったと言える。
 家康が激昂する家臣を収め、江戸に入ったのは天正18(1590)年8月1日であったと伝えられている。

 居城を江戸城に定めた家康は、粗末な城の修復を後回しとして、知行割・検地・町割・灌漑・治水など多方面に渡る領国経営を積極的に行った。この時期、同時に兵農分離と石高制の採用など、諸政策も整備されていくことになる。

 家康は、移封命令にも不満を見せず従い、その後も秀吉の側にあって誠実に奉仕したため、秀吉の信頼を徐々に勝ち取り、秀吉も晩年には家康の力を警戒するよりも、むしろ家康を信頼するようになっていく。

 文禄5(1596)年には、正二位内大臣に任じられ、名実が伴い、しかも朝鮮出兵に当たっては反対の立場をとり、秀吉の勘気に触れた加藤清正や小早川秀秋などに対しても同情的な態度を示したことなどから、諸大名の人気も高く、豊臣政権下では前田利家と共に二大巨頭的位置を占めた

秀吉の死と共に律儀の衣を脱ぐ

 慶長3(1598)年8月18日秀吉は世を去る。死の床で秀吉は、家康に秀頼が成人するまで伏見城で政務の代行を、利家には大坂城にあって秀頼の後見をするよう依頼したという。

 家康は、秀吉の死後直後から公然と諸法度を破り、伊達政宗や加藤清正など有力大名と姻戚関係を作っていった。一時は利家の激怒に苦しい立場に追い込まれたが、慶長4(1599)年、利家が死去すると家康は伏見城にあって天下人のごとく政を専決するようになる。ついには北の政所が居た大坂城西の丸に天守を築かせ、そこで政務をとるようになる。

 慶長5(1600)年、家康は、上洛命令に服しない上杉景勝征伐を決心する。この時、秀頼の名代という名目を得て、徳川家臣団のほか福島正則、黒田長政、池田輝政ら豊臣恩顧の大名も征伐軍に編入することに成功している。

 征伐に向かう途中、石田三成ら西軍の挙兵を知った家康は上杉征伐を中止し、反転、西軍との決戦に向かった。この時、秀吉の代行者であった三成に対する福島正則らの反感を利用し、上杉征伐軍のほぼ全てを味方に引き入れている

 慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いで家康は勝利をする。家康は西軍大名87家の領地を没収し、大規模な転封を行うことによって天下人としての体制作りを行った。また、商業都市や鉱山などを直轄として徳川体制の財政基盤も築いていった。

大御所、将軍家を教育する

 家康は天下人としての名目を得るために、源氏の正統である吉良氏の系図を譲り受け、新田氏の末裔を称し、ついに慶長8(1603)年2月12日、後陽成天皇から征夷大将軍・源氏長者・淳和、奨学両院別当に任じられた

 将軍就任2年目にして、突然、家康は秀忠に将軍職を譲っている。これは、豊臣家対策のみならず、「天下は回り持ち」の否定、つまり戦国の世の終焉宣言といえるものであった。

 将軍職は秀忠に譲ったものの、実権は家康が握っており慶長12(1607)年からは駿府城にあって、本多正純、後藤庄三郎、天海、三浦按針など多彩なブレーンを集め、徳川幕府体制を磐石にすべく、次々と江戸城に指令を出し、秀忠は忠実にそれを実行していった。

戦国武士の世の終焉

 天寿が近づきつつあった家康には最後に、どうしても避けて通れない問題があった。それは豊臣家の存在である。関ヶ原後、65万石の一大名として存続した豊臣家であったが、徳川幕府体制の中で一人、豊臣秀頼のみが将軍に臣従の礼を取らず、家康の大名統制に不満の大名、関ヶ原で西軍に属した浪人達の信望も、いまだに絶大なものがあった。

 家康が初めから豊臣家を滅ぼすつもりであったか、秀吉との約束を守ろうとしていたのか定かではないが、いずれにしても70歳を超え、最晩年を迎えつつあった家康はついに豊臣家を滅ぼすことを決意を固めたのである。

 家康は、まず豊臣家に無理難題を押し付け挑発する手段に出た。最も有名であるのが方広寺鐘銘事件である。これは家康自身が豊臣家に勧めて、秀吉建立の京都東山にある方広寺大仏の再建をさせておきながら、開眼供養を直前になって延期するよう豊臣家に言い渡したものである。つまり大仏殿の鐘銘に「君臣豊楽 国家安康」という文字があるのは、豊臣が楽しくし、家康の文字を分断し呪うものだと難癖をつけたのである。

 ついに豊臣家は家康の挑発に乗り、真田幸村、長宗我部盛親、後藤基次など関ヶ原浪人を中心とする親豊臣勢力を大坂城に迎え入れたのである。
 かくして、慶長19(1614)年10月、徳川方20万、豊臣方10万の軍勢が激突する大坂冬の陣が始まった。初め野戦が展開されたが、しだいに豊臣方は追い詰められ大坂城に篭城する策に出たため、家康も難攻不落の大坂城を正面から攻める愚を悟り、徳川方、有利のまま和睦することとした。

 講和条件により、外堀を埋めることという条件があったが、家康は徳川方の手で強引に外堀のみならず内堀まで突貫工事で埋めたてさせた。このことにより、大坂城は難攻不落から一転、裸城とされたわけである。

 憤慨する豊臣家に対し、更に家康は秀頼の転封か、浪人の放逐かの二者択一を迫った。この時点では、既に頼、淀殿は舞台から降りたくても降りられない状況であったに違いないのだが、家康はそれを承知で挑発したのである。

 元和元(1615)年5月大坂夏の陣の戦端が開かれた。圧倒的に徳川方有利だったが、一時、真田幸村隊が家康本陣になだれ込み、家康も自害しようとしたほどであったという。 しかし、結局は裸城となった大坂城では篭城することも出来ず、元和元(1615)年5月8日豊臣秀頼は自決し、ここに家康の天下統一は完成したのである。

一大英傑、権現となる

 戦国の世を終焉させた一事をもってしても、家康は類まれなき偉大な武将であったが、本人にとっては75年の生涯で長男・信康を信長の命で殺したこと、秀吉との約束を反故にし、策を弄して秀頼を死に追いやったことなど、痛恨事は数多くあったに違いない。大坂の陣の後は、日課念仏に一層、精を出したと伝えられている。

 元和2(1616)年4月17日、徳川家康は75歳の天寿を全うした。否、死の半月前に本多正純、天海、崇伝を枕もとに呼び、「わが遺体は久能山へおさめ、葬儀は増上寺でおこない、位牌は三河大樹寺にたて、一周忌がすんだら日光山に小さな堂を建てて勧請せよ。関八州の鎮守となろう。」と遺言し、死後も徳川の行方を見守ったのである。