武士の時代バナー 一日分の兵糧
 

  戦場に赴くまでの間や短期戦の場合は手弁当が原則であったが、長期戦の場合には兵糧が支給された。
 「雑兵物語」によれば、一日分の一人に与えられる食糧は水一升米六合塩が一勺味噌が二勺の分量であった。
 また、「籠城守禦之巻」によれば米は一人一日四合五勺味噌は二勺塩は一勺とある。
 江戸時代には、一人扶持は米五合とされていたから、多少の違いはあるがおおむね一日の量としては茶碗10杯程ということになる。

 一日3食となるのは、江戸時代に入ってからで戦国期までは2食が普通であったから1食分の換算量は相当なものである。ただし、戦場においては3回から4回くらいに分けて食べたらしい。

 戦国期、普段は雑兵の身分であれば麦・粟・稗・里芋などを食べていたし、ひとかどの武士であっても、せいぜい玄米の雑炊や菜飯がほとんどであったが、戦場にあっては雑兵に至るまで白米であった。また、魚や貝や鳥肉など当時としては超豪華な肴も与えられることがあったというから、これを目当てに戦に参加する雑兵もいたかもしれない。

 ただし、これらを悠長に食べていられるのは実戦が始まるまでの間である。
 実際に行軍が始まってしまえば、小荷駄隊が食糧を運び、場合によっては一人一人が自分の兵糧を腰に巻いて携帯した。いわゆる、腰兵糧である。

 腰兵糧の中身はというと、握り飯、干飯、炒米、焼き味噌、芋の茎などであった。
 干飯というのは、炊いた白米を水で洗い乾燥させたものでそのまま食べることもできたし、水に浸してご飯にもどすこともできた。
 炒米は玄米を炒ったもの、芋の茎は里芋の茎を縄状に編み、味噌で煮しめたもので普段は縄として使い、必要な分を切ってお湯をかければ里芋の茎の味噌汁として飲めるという優れものである。

 「陰徳太平記」毛利元就厳島の戦いに望む時に、自らも腰に焼飯、餅袋、米袋の3つを結びつけて出陣したという記載があるが、腰兵糧は正に命綱であった。