秀 忠 物 語

            

家康三男 長松誕生
秀忠
 天正7(1579)年4月7日家康の三男として浜松で生まれる。この年、家康38歳、9月には長男信康が織田信長の命により自害に追い込まれている。

 母は、お愛の方、戸塚作左衛門の娘で西郷弾正左衛門の養女である。幼名は長松
 天正12(1584)年、家康の二男 秀康が秀吉に養子に出されたことから、6歳の長松が徳川の嫡男に最も近い存在となった。名も竹千代と改名される。

 天正15(1587)年従五位下武蔵守に叙任される。
 天正18(1590)年、12歳になった竹千代は、この年、秀吉に対面。秀吉の手により元服し、秀吉の一字を賜り、秀忠と名乗ることとなる。秀忠の「忠」は祖父 松平広忠の一字を受けたと考えられる。

 この年、家康は秀吉に関東への転封を命じられる。家康は領国経営に全力を注ぐ一方、豊臣政権下、最大の大名という立場から秀吉の側に侍ることを余儀なくされており、領国を留守にすることが多かった。この間、江戸で留守を守っていたのが秀忠であり、徳川家の世継ぎとして認知されていた証拠である。

関ケ原遅参の真実

 慶長3(1598)年、秀吉が没すると家康は、天下の執政として独断で政を行い始める。 慶長5(1600)年、家康は上洛命令に従わない会津の上杉景勝を征伐するため、出陣する。途中、石田三成らが家康の非を鳴らし、挙兵したことを知り、反転し上洛。関ヶ原で天下分け目の戦に勝利する。

 秀忠は関ヶ原の戦いに参戦するため、徳川主力部隊を率いて中山道を進んだが、真田昌幸が守る信州上田城の攻略にてこずった挙句、関ヶ原の戦いに遅参するという失態を演じたという話は有名である。
 このこと自体は事実ではあるが、これを失態というには、秀忠に酷ではないだろうか。

 それというのも従来言われているように、小山評定で秀忠が中山道を西上することが決定されていたのに関ヶ原に遅参したわけでないのである。
 家康の秀忠に対する命令は

@ 当初は、上杉の押さえとして宇都宮方面の総大将
A その後、信州上田城攻略(清洲城の東軍諸将を督戦したことを契機として命令変更)
B 中山道を西上し、美濃表に進出(岐阜城攻略を契機として命令変更)

 Bの命令変更をもたらすため大久保忠益が使者にたったのは8月29日。家康は福島正則に「秀忠は9月10日頃には美濃に着くだろう」と書状で述べている。しかし、忠益は大雨による利根川の川止めにより、秀忠のもとに着いたのは、9月9日である。秀忠は大慌てで、真田に対する押えの手配をし、翌日、小諸を発った。その後も雨は秀忠軍を悩まし、木曽川も渡れず、進軍は遅々として進まなかった。

 秀忠の懸命な努力も空しく、結果として関ヶ原に遅参したのであって、既に使者の遅れが致命的であったし、使者もまた自然の猛威前ではどうすることもできなかったのである。
 家康は秀忠の面会を拒否するほど激怒したといわれるが、家康とて遅参原因が不可抗力であったことは十分承知しているが、東軍諸将の手前、ポーズを取る必要があったのだろう。事実、使者の大久保忠益が罰を受けた形跡は見当たらない。

 関ヶ原の後、家康が井伊直政、本多忠勝、榊原康政、本多正信、平岩親吉らに世子について議論させたと言われているが、これは少々信じがたい。秀忠は秀吉在世時から世子としての待遇を受けていたからである。

律儀将軍誕生す

 慶長8(1603)年、家康は将軍宣下を受け、武士の棟梁となったが2年後、将軍職を辞退し、秀忠に譲っている。
 慶長10(1605)年4月16日、秀忠は将軍宣下を受け、ここに徳川二代将軍が誕生した。この時、秀忠、27歳。

 家康は、駿府に退いたが大御所として実権を握り、大名統制、朝廷統制などを強力に推進した。一方、秀忠は本多正信大久保忠隣酒井忠世土井利勝青山忠成内藤清成などの新旧譜代の家臣に支えられ、江戸で主に幕府の組織作りを行うといった二元政治が行われた。

 二元政治では、多少の軋轢はあったものの秀忠は、重要課題については家康の意向を遵守したし、家康もまた将軍の権威を高めることに腐心したため、徐々に徳川幕府による支配体制は固められていくことになった。 

 元和2(1616)年、家康は75歳の天寿を全うした。
 家康亡き後、駿府政権は解体し、将軍・秀忠の下に権力が一元化され、幕閣は秀忠側近の酒井忠世土井利勝を中心に安藤重信青山忠俊内藤清次土井正就板倉重宗永井尚政らで固められた。

「強き御政務」に諸大名、恐怖す

 家康の死後、秀忠は強力に大名統制を行い、諸大名に動揺する隙を与えなかった。
 具体的には次のような政策である。

@ 元和2(1616)年、弟・松平忠輝(越後高田藩主)を改易
 家康により蟄居とされていた忠輝を改易・配流処分とし、徳川一門といえども将軍家に服従しないものは許さないという確固たる決意を示した。

A 元和3(1617)年、秀忠は諸大名に領地朱印状を発給
 このことは、将軍の所有する領地、人民を諸大名に預けおくことということを確認したものであり、しいては将軍家が大名を転封・改易させることができるといことであり、極めて重要な意味を持つ事柄である。

B 有力外様大名を中心とした改易徳川一門・譜代大名の取り立て
 大御所時代を含めて、秀忠が改易した大名は松平忠輝福島正則本多正純28家388万6千石に及び家康に次ぎ強権を発動していることになる。

 また、大名統制のほかにも朝廷統制、貿易統制、幕府体制整備等の諸政策を実施しており、秀忠時代にその後の幕藩体制の基礎は確立したといっても過言ではない。(大御所時代の施政も含む)

秀忠、天皇家の外祖父となる

 なかでも、元和6(1620)年秀忠五女・和子(初姫)を後水尾天皇の妃として入内させたことは家康の発案ではあったが様々な困難を越えて実現させたものである。このような例は先に平清盛の娘が入内して以来のことであり、和子の娘が(明正)天皇に即位したことによって、秀忠は天皇家の外祖父として朝廷を統制すると同時に庇護する立場となったという点で意義が大きい。

二代目大御所誕生

 元和9(1623)年7月、秀忠は将軍職を嫡男・家光に譲り大御所として政治的実権を握ったまま家光体制への布石を打っていった。なかでも、将軍と側近による政治から将軍の器量によって幕政の運営が左右されないように江戸年寄(のちの老中)、江戸老中(のちの若年寄)、町代官(のちの町奉行)などの機関を設けた意義は大きい。

偉大な政治家、秀忠没す

 寛永9(1632)年正月、二代将軍秀忠は、後事を家光に託し、54歳で没した
 秀忠は、家康と家光の間で影が薄い印象を与えるが、その実、家康の路線を忠実に踏襲したのみならず、かなり独自性の強い施政を行っているし、家光の事績と勘違いされがちな貿易統制等も実は大御所秀忠の施策である。秀忠花押
 秀忠は、歴代将軍の中でも家康、慶喜に比肩しうる偉大な政治家であったといえる。

 昭和33(1958)年、増上寺の秀忠の墓が発掘されたが、その埋葬状態は非常に質素で埋葬品も日常の品ばかりであったという。秀忠の人柄、姿勢がうかがい知れるエピソードといえよう。