秀長は天正19年(1591)に病死した。秀吉に先立つこと7年あまりである。
秀長がもう少し長生きしていれば・・・と考えた時、私は歴史のおもしろさを覚えずにはいられない。
「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」と言われたように、秀長の豊臣政権下における位置は非常に重いものがあった。秀吉にしても公私を問わず頼れるのは秀長であったはずである。
秀吉の実弟でもあり、実力も兼ね備え、しかも、そのおだやかな性格から豊臣政権のまとめ役であった。また、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはないが、秀吉に対して遠慮なく諫言できるのは秀長だけであった。
秀長が死の床についた時、見舞いに来た前野長康に「わたしも病気を得て、すっかり気が弱くなってしまった。志も達することもできずに病気となり、兄者に諫言することもままならず空しく伏せっている。我が命のある限り兄者、天下のことに尽くしたく毎夜、夢にうなされている。ご憐察ください。」と言ったというが、本人も無念であったろう。
また、秀長は「いたずらに外国と争い、人馬や兵糧を費やすことはおろかなことである。損失ばかり多く、何も得るものはない。和議を講じて交易を行うことが富国の一番の道である。」として病床にありながら朝鮮と戦を行うことに反対していたというが朝鮮出兵が決定されたのは秀長の死から2ヵ月後のことであった。
秀長の死を知った時、秀吉は片腕を失った、と号泣したといわれるが、秀長を失った秀吉は人が変わったように利休切腹、朝鮮征伐、秀次抹殺と暗い面ばかりが目立つようになる。
秀長が生きていれば、少なくとも利休、秀次のことはなく、朝鮮とのことも違った形になったのではないか。そうなれば、加藤清正らと小西行長、石田三成の対立もそれほど表面化しなかったのではないか。もちろん、秀長が生きている間は家康の出番もなかっただろう。
もちろん、以上のことは私個人の空想の域を出るものではないが。
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