将軍謁見の様子
 

 諸大名が将軍に謁見する場合、どのような様子であったのだろうか?
 このことについて十二代広島藩主 浅野長勲(ながこと)の話が残っているのでその概略を紹介する。

 
「将軍に謁見します時は白書院で行います。白書院には上段、下段の2つの間があり、もう一つ先に間がある。上段の所に将軍が簾を半身垂れて着座しておられる。

 国主になると、上段の次の間の中ほどで謁する。将軍を拝し見ることはできません。平身低頭するだけです。
 国主に限って、老中の披露があるが、何の守などと言わず、ただ安芸とか薩摩というような風に披露する。ただ、津の守、紀の守だけは、摂津、紀伊とはいわず守をつけて披露されます。

 その様子は全く君臣の態です。陛下に拝謁するには、御顔を拝することができるのに将軍の場合は将軍からご覧になるだけで、こっちから仰ぎ見ることはできません。

 だから、大広間詰以外の柳の間ぐらいの外様大名が謁見するときは、将軍が終始着座しておられない、といわれるほどです。
 この時は白書院の先の一間の障子のところに5人位ずつ並んで謁する。この時は何も披露がなくお辞儀をして引いていくゆくだけです。

 謁するとき畳の縁へ手がついたり障子へ脇差がさわったりすると、御目付けが駈けてきて、下城差留めということになる。ただし、これは譴責を受けるだけで、それ以上の処分はありません。」
 芸州浅野家は、外様とはいえ城主で格式が高く大広間詰であるから、白書院で単独で謁見となるが格式によって謁見場所も違っていた。
 年中行事の中でも最も重要な儀式である年頭拝賀の場合、将軍が謁見する場所は御座之間、白書院、大広間、大廊下である。



本丸座敷名 拝  謁  者
大広間 上段 28畳  譜代・外様などで白書院、黒書院、御座の間で拝謁しな
い者
 この時、侍従以上・従四位以上は独礼(単独)でそれ以
外は立礼(一同揃って拝謁)
中段 28畳
下段 36畳
白書院 上段 28畳  大廊下詰(御三家、前田家、越前家)、大広間詰(外様の
大身)、溜之間詰(高松、桑名、井伊、会津など)、その他
家門・譜代の侍従以上
下段 24畳半
黒書院 上段 18畳  新御番組頭、表祐筆組頭、奥表祐筆など
下段 18畳
御座之間 上段 15畳  御三卿、老中、若年寄など
下段 15畳
御次 15畳

 また、それぞれの座敷で身分格式により着座する位置まで定められていた。
 白書院についての定めは以下のとおりである。
      

大納言・・・・・上段より下に三畳目の上位
中納言・・・・・上段より下に三畳目の下位
宰  相・・・・・上段より下に四畳目の下位
中  将・・・・・敷居より上へ三畳目の上位
少  将・・・・・敷居より上へ二畳目の上位
侍  従・・・・・下より一畳目の下位
四  品・・・・・板縁の下位より上へ三畳目中位
諸大夫・・・・・板縁の下位より上へ二畳目中位
一万石以下・・・・・諸大夫の位置よりやや下位

* 白書院は年頭拝賀では、侍従以上の拝謁であるが、その他の行事式日のためそれ以下も定められている

 将軍への拝謁について勝安房守義邦(海舟)がおもしろいエピソードを残しているので紹介する。

ある時、御用があって将軍が海舟を御座之間に召し出した時の事。
将軍から「それへ」(近くに進み出よ)と声がかかった。この場合、拝謁者は将軍の威に打たれ進むことができないということで膝行の素振りだけ見せて元の座で拝謁するのが古来のしきたりである。

ところが海舟は立って前に進もうとしたため、大目付、御側御用人が慌ててこれを制した。別室で大目付が海舟の無礼を詰問した時、海舟は次のように答えたと言う。

「御上からそれへの言葉があったため、前に進み出て国家の大事を言上しようとしたのである。これを制する理由をお聞きしたい。
今、天下は未曾有の危機に瀕しているのである。このような時に旧慣例を墨守しようというのはなぜか。
私はこのようなことは幕府のためにならないと思う。」


 これに対し、大目付も返す言葉がなかったと言う。