豊臣恩顧の武断派で、徳川幕政下の広島浅野本家の礎を築く。
長政の長子、15歳で秀吉の小田原攻めに従軍し、武蔵岩槻城攻略で抜群の働きを見せ秀吉に賞される。
1595(文禄4)年、姻戚関係から豊臣秀次失脚に連座し、能登津向に配流されるも前田利家のとりなしにより翌年赦免される。
1592(文禄元)年の朝鮮出兵では加藤清正とともに蔚山で壮絶な篭城戦を演じた。
帰国後は他の武断派と同じく三成に反感を持ち、家康の会津征伐に従軍し、三成挙兵後は岐阜城攻撃に参加した。関ヶ原本戦では、南宮山方面に布陣し、長束正家隊と小競合い演じた程度であったが、戦後、紀伊和歌山37万7千石を与えられた。
家康は関ヶ原後、豊臣恩顧の武将として加藤清正、福島正則らと共に最も警戒した武将の一人であった。
二条城での秀頼と家康の対面の時、秀頼方として付き添ったが大坂の陣を迎える一年前に死去した。
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