浅野幸長(あさのよしなが) 生年 1576(天正4) 没年 1613(慶長18)
 豊臣恩顧の武断派で、徳川幕政下の広島浅野本家の礎を築く。
 長政の長子、15歳で秀吉の小田原攻めに従軍し、武蔵岩槻城攻略で抜群の働きを見せ秀吉に賞される。
 1595(文禄4)年、姻戚関係から豊臣秀次失脚に連座し、能登津向に配流されるも前田利家のとりなしにより翌年赦免される。
 1592(文禄元)年の朝鮮出兵では加藤清正とともに蔚山で壮絶な篭城戦を演じた。
 帰国後は他の武断派と同じく三成に反感を持ち、家康の会津征伐に従軍し、三成挙兵後は岐阜城攻撃に参加した。関ヶ原本戦では、南宮山方面に布陣し、長束正家隊と小競合い演じた程度であったが、戦後、紀伊和歌山37万7千石を与えられた。
 家康は関ヶ原後、豊臣恩顧の武将として加藤清正、福島正則らと共に最も警戒した武将の一人であった。
 二条城での秀頼と家康の対面の時、秀頼方として付き添ったが大坂の陣を迎える一年前に死去した。
宇喜多秀家(うきたひでいえ) 生年 1572(元亀3) 没年 1655(明暦元)
 豊臣恩顧の武将で、五大老の一人。
 中国の謀略家、直家の子。10歳で家督を継ぎ、秀吉の中国攻めに参加し、備中の一部、備前、美作合わせて57万石を得る。
 四国、九州攻め、朝鮮出兵でもめざましい活躍をし、秀吉も我が子同然に扱い、養女(前田利家娘、豪姫)を娶わせたほか、1594(文禄3)年に権中納言に昇進、1598(慶長3)年には20代で五大老に昇進させた。
 秀吉の死後、国元と上方家臣の間でいさかいが起こり、家康がこれを扇動したため、秀家は家康に対し憤懣を持っていたとされる。
 関ヶ原では、西軍の副将格となり、伏見城攻撃に参加、本戦では福島正則隊と激戦を繰り広げた。
 小早川秀秋らの裏切りにより、西軍の敗退が決定的になった時、秀秋と刺し違える覚悟を決めるが、家臣・明石全登の自分の怒りより、再起を図るべきとの諌言を入れ、伊吹山方面に逃走した。
 その後、薩摩に匿われ、1603(慶長8)年に島津忠恒、前田利長の懇願により、罪が軽減され八丈島に流罪となった。
 秀家は、嫡子、次男ら13名とともに八丈島大賀郷で島民と融合し、50年の歳月を送った。
 1655(明暦元)年、84歳で世を去った時は既に四代将軍家綱の治世であった。

 秀吉恩顧の武将が家康になびく中、秀吉の恩を忘れることなく、当然のように豊家第一に行動した秀家は戦国の世を渡るにしては、余りに素直すぎる生き方であったのかもしれない。
大谷吉継(おおたによしつぐ) 生年 1559(永禄2) 没年 1600(慶長5)
 大友宗麟の家臣・大谷盛治の子という説があるが定かではない。初め紀之助と称する。
 秀吉子飼いの武将で天正11(1583)年の賤ケ岳の戦で七本槍に次ぐ働きをするが、主に検地奉行や兵站奉行として用いられ、秀吉をして「百万の軍の軍配をあずけてみたい」とその智謀、人柄を愛されたと言う。
 天正13(1585)年従五位下刑部少輔に叙任され、同17年越前敦賀五万石の城主となる。文禄元(1592)年の朝鮮出兵では石田三成、増田長盛とともに船奉行、現地督戦奉行などを勤めた。
 吉継が石田三成と少年の頃よりの固い友情で結ばれていたことは周知のことであるが、一方では親家康の立場を明確にしており、秀吉の死後、家康が四大老・五奉行と対立した際も家康側に与している。
 家康の上杉征伐の際、三成と家康の仲を調停しようと征伐軍に合流する途中、美濃の垂井で佐和山の三成に使者を送り、三成の子(重家)を従軍させようとするが、逆に三成から佐和山に来るよう求められ、家康追討の計画を明かされる。
 吉継は三成に対し言を尽くして、その無謀を説き、自分が病身(癩病がかなり進行していた)を押し、家康に従軍するのは重家の後見をするためであるとまで言って説得したが、物別れに終り、垂井に戻った。
 垂井に戻った後も3日間、使者を遣わし三成に説得を繰り返したが、決意が変わらないため、意を決し、三成と運命を共にする覚悟を固めた。
 吉継は、一時、他の将と共に小松で前田利長を牽制していたが、9月3日に関ヶ原に到着し、小早川秀秋が陣取っていた松尾山の北の藤川台に陣した。開戦後、藤堂高虎、京極高知、寺沢広高隊と激戦を繰り広げ、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊に殺到した後も、そのことを予想していた吉継は備えており、一時は逆に小早川隊を押し戻したほどであった。
 しかし、小早川隊の裏切りに備えたはずの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四隊までもが寝返り、大谷隊は三方を敵に囲まれる形となり、ついに総崩れとなった。
 吉継は家臣に首を打たせ、首を敵に渡さぬよう土中に埋めさせたと言う。
 吉継は死に臨み「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言ったという。
 秀秋は、二年後、狂乱の末に死亡、脇坂ら四将も家康から非常に冷たく扱われたのであった。
藤堂高虎(とうどうたかとら) 生年 1556(弘治2) 没年 1630(寛永7)
 藤堂氏は代々、近江国犬上郡数村を領し、高虎は父・虎高とともに浅井氏に仕え、元亀元(1570)年の姉川の戦いで初陣を飾ったと言うが、8、9歳の頃より大人顔負けの体格で「勇力豪強志気壮武」と評されるほどであった。幼名は与吉。
 浅井氏滅亡後、阿閉(あつじ)氏、磯野氏、織田信澄と主君を変え、天正4(1576)年に羽柴秀長に仕えることとなる。中国攻め、賤ケ岳の戦い、四国攻め、九州攻めなど戦の度にめざましい軍功をあげ、紀州紛河2万石の城主となった。
 秀長、秀保(秀長養子)が相次いで没し大和郡山豊臣家が断絶すると、一時、高虎は菩提を弔うため高野山に入ってしまうが、秀吉に呼び戻され、伊予板島(のち宇和島と改名)城主八万余石に抜擢される。
 復帰後、文禄の役に出陣、続いて慶長二年に起きた再度の朝鮮の役にも出陣し、加藤嘉明とともに水軍を率いて戦い、巨済島に朝鮮水軍を破った。しかし、失脚していた李舜臣が登場するや苦戦を強いられ高虎自身も負傷している。
 秀吉没後、他の武将が動揺する中、高虎はいち早く、次の天下人が家康であることを確信し、家康のために心憎いまでの働きを見せる。
 例えば、
@四大老五奉行が私婚の禁を破った家康を問責した際も、いち早く家康に通報
A家康暗殺計画がささやかれる中、家康が前田利家邸を訪ねた際、密かに家康の身辺を警護し、訪問を終えた夜は自邸を家康に提供し徹夜で警護
B前田利家が死亡の報をいち早く、家康に注進
C上杉征伐従軍に際して、いち早く弟・正高を江戸に人質に出す
D関ヶ原本戦に際し、脇坂・朽木・小川・赤座の寝返り工作を行い東軍勝利の決定的要因に寄与
 これらは代表例であるが、高虎は家康が何を考え、望んでいるかを的確に読み、外様という立場にありながら、あたかも家康の家臣のごとく働き、家康の絶大な信任を勝ち取っていく。
 関ヶ原後、伊予今治20万石を与えられ、慶長13(1608)年には伊賀・伊勢津22万石に移封、更に大坂の陣の功も加わり元和3(1617)年には、32万4千石を得るに至る。
 高虎は、築城家としても優れ、伏見城、丹波亀山城、上野城、津城、二条城などを手がけている。
 高虎は戦国乱世を七度主人を変えながら、大成功を収め寛永7(1630)年に没している。
細川忠興(ほそかわただおき) 生年 1563(永禄6) 没年 1645(正保2)
 長岡(細川)藤孝(幽斎)の長子。織田信長に仕え、父と共に明智光秀軍に属し、松永久秀攻めでは信長から感状を下されている。
 また、信長の嫡子・信忠から一字を与えられ忠興と名乗り、信長の取り持ちにより光秀の三女・お玉を娶っている。
 本能寺の変では、父と共に明智光秀を見限り、秀吉に与した。この時から家督を譲られ、丹後12万石宮津城主となる。
 小牧長久手の戦いでは、織田信雄を破り、羽柴の姓を許された。その後、九州・小田原攻めなどに参戦し、従三位参議、越中守に任じられた。
 秀吉の死後は、家康に与して上杉攻めでは福島正則、加藤嘉明とともに先鋒として出陣し、関ヶ原本戦でも石田三成と激闘を演じた。更に父・幽斎が篭城する田辺城に取って返し、父を救っている。
 この活躍により豊前、豊後二郡の39万9千石を与えられ、家督を忠利に譲った後、寛永9(1632)年、加藤忠広改易に伴い、肥後熊本54万石に移封となった。
 忠興は天寿を全うし、正保2(1645)年、83歳で没した。
 忠興は父譲りの政治嗅覚に優れ、隠居後も情報の収集・分析をよく行い、幕府の外様取潰し政策の中、付け入る隙を与えなかったという。 また、若年から激しい気性を持ち合わせ、戦場で活躍した反面、有職故実、和歌、絵画、能など多方面に優れ、特に茶道は利休七哲の一人として三斎流を興しており、当代きっての文化人でもあった。