権威の象徴「三ツ葉葵」 | ||
「控えーい、控えーい!この紋所が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ」とご存知の三ツ葉葵についてとりあげます。 |
葵紋のルーツ |
家の象徴として代々用いる紋章を家紋という。 戦国武将の多くは、名家の末裔を自称し、力で勝ち取った所領あるいは地位の正当性を確保する必要があった。家紋はそれを表す系譜のシンボルである。 葵紋は本来は京都の加茂神社の神紋である。 葵はウマノスズクサ科に属するフタバアオイで山地に自生する多年生草本である。 毎年5月中旬に加茂神社で行われる「加茂祭」でこの植物を祭人の冠の「かざし」等に用いることからこの祭りは別名「葵祭」という。 葵紋は加茂信仰の広がりとともに家紋の図柄として取り入れられていったと考えられるが確認できる葵紋の最古のものは「見聞諸家紋」(中世の家紋を収録した書物)に見える丹波国船井郡の豪族西田氏の「二葉立葵」である。 ちなみに徳川将軍家の家紋は「三ツ葉葵」と言われることが多いが学者の間では「三ツ葵」と言い、「徳川実紀」には「葵鞆絵(あおいともえ)の御紋」とある。 ここでは「三ツ葉葵」と称することとする。 |
徳川家と「三ツ葉葵」 |
ところで徳川(松平)家の家紋は代々「三ツ葉葵」であったのであろうか。 葵がフタバアオイである以上、葉は2つのはずだが「三ツ葉葵」は葉が3つというところが非常に特徴的であり、丸に囲まれた図案は比較的、新しい形態ということができる。 家康の祖父・清康や父・広忠の時代に家紋が「三ツ葉葵」であったという確証はない。ちなみに松応寺の広忠の墓所には「剣銀杏紋」が刻まれている。 ただ、「見聞諸家紋」によれば三河国の松平・本多・伊奈・島田氏らが戦国時代前期ころから葵紋を用いていたとあるが、残念ながらその図案は不明である。 これらのことから、一種の葵紋を松平家で使用していた時期があり、これを家康の時代に「三ツ葉葵」としてアレンジして家紋としたのではないだろうか。これはあくまで、私の推測であることをお断りしておく。 また、松平氏が清和源氏の末裔で新田氏を祖とするというのが真実ならば、家紋は「大中黒」または「一引両」であるはずなのだが、なぜ、「三ツ葉葵」なのか?家紋の謎は、そのまま出自の謎でもある。 ちなみに、松平家が葵紋を家紋とした由来として次の説がある。 @ 松平清康の水葵の器由来説 家康の祖父・清康が三河田城主の戸田氏を攻めた時、その戦勝祝いに伊奈城主の本多正忠が庭にあった水葵を器として肴を清康に差し出したところ、清康が大層喜び、この後、葵を紋とした。 A 酒井家あるいは本多家から流用説 酒井家は松平氏の祖・親氏が最初に婿入りした家であるとされているが、酒井家はもともと加茂氏族であることから元々は酒井家の家紋が葵紋であって、これを松平氏が流用し、主家に遠慮した酒井家が「剣片喰紋」に変えたとする説 B 松平家加茂氏説 松平氏三代目といわれる信光が「加茂朝臣」を称していたことから、松平氏自体が加茂氏族であり、もともと葵紋を使用していた。 |
「三ツ葉葵」の制限 |
「三ツ葉葵」の使用は厳しく制限されていたのだろうか。 おそらく、使用が厳しく制限されていたに違いないと考えがちだが、そうでもないらしい。 事実、御用商人らは提灯や長持等に「三ツ葉葵」紋をつけていたし(天和3(1683)年以降は御用の文字のみとされた)、寺院などでも「三ツ葉葵」を使用している。 以外にも、「三ツ葉葵」の使用が明文で制限されたのは享保8(1723)年の吉宗の時代に入ってからである。この制限にしても正徳3(1713)年の武田掃部助や享保8(1723)年の山名左内による「三ツ葉葵」紋を使用しての詐欺事件があったからといえる。 もちろん、大名等武士にとっては「三ツ葉葵」は武家の棟梁たる徳川将軍家にゆかりあり、という証になるから、その使用を控えたことは当然である。幕府が使用を制限するというより武士世界の常識として、勝手に「三ツ葉葵」を振りかざす事はありえなかったにちがいない。 現在でも、大名家の調度品などで「三ツ葉葵」紋をあしらった物を見かけることがあるが、これは、将軍家から下賜されたか、将軍家の子女が嫁いだ際の道具か、あるいは将軍家の男子が養子に入り、終身にわたり「三ツ葉葵」紋の使用が許された場合などである。 |